賃上げは最重要の課題 問題はそのための政策

エコノミストはシャロックー・ホームズが好きだ。中でも『銀星号事件』はしばしば引用される。

ホームズは、「事件のあった夜に犬が啼かなかったのが不思議なことだ」と言う。侵入者があれば、犬は激しく啼くはずだ。啼かなかったのは、侵入者が犬の顔見知りであったことを意味する。「何かあるか」でなく、「何がないか」が重要だ。

冷戦時代、クレムリン・ウオッチャーは、革命記念日にレーニン廟の上に誰が「いないか」を注目した。いるべき人がいなければ、失脚を意味し、政変を意味するからだ。

経済政策についても、同じことが言える。「あって然るべきものがない」ことこそ重要である。

では、アベノミクスについて、何がないか? 円安になったのに輸出が増えない。金融緩和したのに貸し出しが増えない。金利は低下すべきなのに、導入前に比べて上昇した、等々だ。

最も重要なのは、賃金が上からないことだ。

この1年間の現金給与総額の動向を見ると、対前年比マイナスの月が多い。他方で、円安によって消費者物価は上昇しているので、実質賃金の対前年比は、7月以降マイナスを続けている。8月はマイナス2.0%であり、9月はマイナス1.2%であった。

つまり、労働者の生活は貧しくなっているわけだ。アベノミクスの成果とは、国民を豊かにすることではなく、ごく一部の人々に株高を通じて巨額の利益をもたらすことだった。この数字がはっきりとそれを示している。

円安による物価上昇は今後加速する可能性があるので、実質賃金低下への対処は緊急の課題となった。

物価を上げるのが重要なのではなく、賃金を上げるのが重要なのだ。この当然のことが、やっと認識されるようになった。こうした認識の変化は歓迎したい。問題は、賃金を上げるための方策である。

政府は、企業に賃上げを要請するため、政労使会議を発足させた。しかし、政府が民間企業の賃上げを要請するのは、自由主義経済の基本原則に反することであり、基本的に誤っている。それだけではない。以下に述べるように、賃金決定のメカニズムについて基本的な誤解がある。

売り上げが増加しなければ賃金は上がらない

個々の企業は、市場で決まっている賃金水準の下で、どれだけの労働者を一犀っかを決定する。その場合の基準は、雇用を1単位増やした場合の生産物価値の増加が賃金に等しくなることである。

個々の企業の労働需要を集計したものが労働市場での労働の需要となり、これと労働の供給が等しくなるように賃金が決まる。

では、いかなる条件下で企業は雇用を増やすか? それは、売り上げが増加すると予測されるときだ。

「賃上げの条件が整いつつある」と言われる。企業利益が増加したので、このように言われるのだろう。売上量が増えて利益が増えているのであれば、雇用を増やすことができる。

しかし、いま生じている利益増は、売上量が増えているからではなく、円安によって円表示の売上額が増加しているために生じているものである。このような条件下で雇用を増やせば、利益が減る。それを続ければ、企業は倒産してしまうかもしれない。つまり、これは、合理的な行動とは言えない。

合理的ではない経営判断によって企業の利益を減少させるのは、株主の利益を損なう。したがって、株主から訴えられる可能性がある。そうでなくとも、株主はその企業を見限って、他の企業の株を買うだろう。したがって株価が低下することになる。

賃金下落の基本原因は産業構造の変化

労働市場は単一ではなく、労働の種類によって異なる市場がある。だから、賃金は産業別に差がある。最近のデータで現金給与総額を見ると、製造業が30万6546円であるのに対して、卸売業、小売業は23万2208円、飲食サービス業等は11万7724円、医療、福祉は24万7868円だ。

他方で、産業別の就業者人口は、1990年代以降、大きく変化した。製造業は大きく減少し、2012年の雇用は、90年よりも約25%減少した。これは、中国をはじめとする新興国が工業化したためである。日本だけでなく、世界のすべての先進国が同様の(あるいは日本より強い)影響を受けた。

一方、医療介護は顕著に増加した。この分野の雇用は、2000年から12年にかけて、62.8%増加した。これは、人口高齢化によって介護サービスの需要が増えたこと、介護保険が導入されたことなどによる。

産業間に著しい賃金格差があり、高賃金の製造業が減り、介護が増える。これが、長期的に見て、日本の平均賃金を下落させたメカニズムだ。

毎月勤労統計調査によれば、今年の9月における製造業の労働者数は、801万人である。他方で、医療、福祉は613万人、飲食サービス業等は402万人、卸売業、小売業は869万人であり、これらの合計で2000万人近い。この部門の賃金がどうなるかこそが重要だ。だから、製造業の賃金をいくら上げても、経済全体の賃金は下がる。政労使会議に参加しているのは製造業大企業が中心のように見えるが、これでは全体の賃金に影響を与えられない。

平均賃金を下落させている第2の要因は、非正規労働者の増加である。今年の1月から9月までの変化を見ると、正規の職員・従業員が45万人減少したのに対して、非正規の職員・従業員が117万人増加した。

9月においては、雇用者5232万人のうち、正規の職員・従業員は3291万人(62.9%)にすぎず、非正規の職員・従業員が1940万人(37.1%)になっている。

パートタイム労働者の賃金は、一般労働者に比べると低い。13年9月で、一般労働者の現金給与総額が33万5846円であるのに対して、パートタイム労働者の現金給与総額は9万4562円で、3分の1以下でしかない。

現在の日本で全体の賃金動向を左右しているのは、以上のような要因だ(なお、これらについての詳細のデータは、『ダイヤモンド・オンライン』に連載中の「日銀が引き金を引く日本崩壊」を参照)。

以上の分析から得られる結論は、次の通りだ。第1に、政府が緊急に実行すべきは、消費者物価の上昇を抑制して、実質賃金の引き上げを図ることだ。消費者物価の上昇は、ほぼすべて円安に起因するものなので、円安を抑えることが必要である。

第2に、仮に賃金引き上げを経済政策の最優先目標にするのなら、介護従事者の賃金を引き上げるべきだ。なぜなら、これは、民間企業への要請ではなく、政府が自らコントロールできる介護保険での問題だから。

もちろん、財源をどうするかという大問題があるし、この分野の人件費をさらに高めるのが望ましいかどうか、という問題もある。しかし、平均賃金引き上げだけを目的にするなら、これまで述べたことから考えて、現在の日本で最も効果があるのは、この施策だ。

本当に必要なのは、産業構造の転換だ。製造業の縮小は不可避なので、賃金の引き上げは、製造業より生産性の高い新しいサービス産業をつくることによってしか実現できない。

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