バレエと政治に関する独断的一考察

新聞報道によれば、1961年から95年までボリショイ・バレエのソリストだったナタリア・ベスメルトノワが、腎臓病のため2月19日に死去した。

86年にボリショイがロンドンで行なった公演で、ベスメルトノワは、「レ・シルフィード」を演じている(これは、彼女のデビュー演目でもある。この役でベスメルトノワを超えるバレリーナは、いまだに現れていない)。ここ数週間、毎日のようにこのDVDを見ていたので、訃報に強い衝撃を受けた。

「シルフィード」というのは、「空気の精」のことである。したがって、重さがない。重力の束縛から解き放たれた踊り手が、ショパンのメランコリックな音楽に乗って、夢の世界の出来事のように舞台を浮遊する。これは、間違いなく麻薬的陶酔作用を持つ演目である(同じDVDを毎日見ること自体が、強い中毒症状のなによりの証拠だ)。

ベスメルトノワは、41年生まれ。同時期に生まれたバレリーナには、アーラ・シゾーワ(39年)、エカテリーナ・マクシーモア(39年)、ナタリア・マカロワ(40年)がいる。ソ連を代表するバレリーナがこの時期に集中して誕生しているのは単なる偶然であろうが、40年生まれの私は、同時代を共有したという強い連帯感を彼らに対して覚える。

これは、ビートルズやビーチボーイズに対して抱く感覚と同じ喪のだ。映画で言えば、「アメリカン・グラフィティ」や「遠い空の向こうに」(原題:October Sky)の主人公たちに対して感じる気持ちである。

鉄のカーテンの向こう側にいた人びとに連帯感を持つというのは、まことに奇妙なことなのだが、同じ世界的な事件を同年齢のときに経験したという認識が、そうした感覚を呼び起こす。

冷戦、共産主義政権ソ連のバレリーナたち

等しく経験した世界的事件とは、第二次世界大戦、45年間続いた冷戦、スプートニクに代表されるソ連の大躍進、そして社会主義国家の崩壊だ。ソ連のバレリーナたちが、これらによって人生経路を左右されたことは疑いない。とりわけ冷戦は、日本人には想像もできないほど大きなものだったろう。

実際、マカロワは、共産主義の束縛に耐えられず、自由を求めて亡命した。ヌレエフの亡命は有名だが、彼はそれによって、バレエにおける最高のパートナーであったシゾーワを犠牲にしたはずだ。「将来ソ連を訪れることがあるとすれば、シゾーワと踊るためだ」とヌレエフは述べている。しかし、この時代にソ連を捨てれば、二度と戻ることはできない。冷戦は、彼らの人生の根本を規定する厳然たる条件であったのだ。

ベスメルトノワは、共産主義国家にあって、体制側だったと想像される。彼女を解説する文章には、「ボリショイ・バレエに30年間君臨した」という表現が出てくる。

われわれは彼女に対して、「高貴」「優美」というだけでなく、「とりつく島もない」という印象を抱く。「白鳥の湖」のオディールは、普通は笑顔をつくるものだが、冥界から出現したかのごときベスメルトノワの黒鳥は、一度たりともそうした表情を見せない。「カーチャ」と呼ばれて誰からも愛されたマクシーモワとは、対極的な存在だ。

この時代のソ連バレエ団の内情は、日本人にはうかがい知ることができない。「ボリショイ・バレエの内紛」というような言葉を見て、権力闘争があったのだろうと推測するだけのことである。

以下は私の想像だが、ベスメルトノワが獲得した権力は、共産党中央と無関係ではありえなかったろう。モスクワのボリショイは、レニングラードのキーロフより強い政治的支配下にあったはずである(実際、私の知る限り、亡命者はすべてキーロフからであり、ボリショイからではない)。

それゆえ彼女は、ソ連帝国の崩壊によって大きな影響を受けただろう。事実、彼女の夫君ユーリ・グリゴローヴィッチ(多くの古典バレエの再振り付けと新作バレエの創作を行なった)は、現代のロシアでは批判の対象とされているのだ。

言葉がないバレエに欺瞞はない

しかし、こうしたすべてのことは、「白鳥の湖」でオデットのアダージョを演じるベスメルトノワの「この世のものならぬ」(としか言いようがない)映像を見ているうちに、「じつに些細なことではないか」と思えてくる。このような考えに至るのは、次の2つの理由による。

第1に、歴史の長期的な観点からすれば、バレエは政治権力の変遷を超越しているからだ。「レ・シルフィード」の作者ミハイル・フォーキンは革命を逃れてアメリカに渡ったが、彼の創作物はソ連に残り、その文化水準の高さを示す指標となった。

そればかりではない。帝政ロシアの象徴である古典バレエが、革命後のソ連に残った。王子や王女が共産主義イデオロギーと整合するはずはないのだが、革命政府はそれらをそのままの形で残さざるをえなかった(オーロラ姫を百年の眠りからさます役は、「労働者英雄」とはならず、王子様のままだった)。

そして、ソ連の崩壊後も、ロシア・バレエは健在だ。つまり、共産主義政権の成立も崩壊も、ロシアのバレエには本質的な影響を与えていないのである。

これは、考えてみればじつに不思議なことだ。仮に古典バレエがロシアの民族的伝統に立脚しているのなら、それは理解できる。しかし、これらのあいだには、なんの関係もない。優雅そのもののバレエは、ロシアの民衆にとっては、「文化先進国フランスから皇帝が輸入した異国の高尚な芸術」以外の何物でもないのだ。

ロシアの伝統的な踊りとは、ソ連映画「石の花」や「イワン雷帝」に登場する粗野なコサック・ダンス(トレパーク)である。この踊りは「くるみ割り人形」にも現れるが、なんと、アラビアの踊りや中国の踊りと同列の「民族舞踏の1つ」として扱われているだけなのである!

バレエが政治を超越している理由は、ただ1つ。それが人間にとって、政治より重要な意味を持つからである。

ベスメルトノワの評価に政治が無関係と考える第二の理由は、バレエの世界には「偽り」がないことだ。

政治権力によって滅ぼされた超一流のバレリーナはいたかもしれない。しかし、権力におもねるだけで地位を築けたバレリーナはいない。なぜなら、踊り手が観客を欺くことはできないからだ。私のような素人の鑑賞者でさえ、超一流と二流以下のバレリーナの見分けはつく。

これは、バレエが「言葉」と無関係であることと、深いかかわりがある。私は、世界と宇宙の真実は「言葉」の中にあると信じて疑わないが、同時に、言葉こそが人を欺く手段であると認めざるをえない(動物が人間を欺けないのは、言葉を持たないからだ)。

政治家の言葉になんの真実も宿っていないのはやむをえないこととして、学者や専門家と称する人たちが言葉によって世を欺くことに、私は耐えられない。偽りの自然科学者は実験によって暴かれるが、社会科学では、そうした検証ができない場合が多いのだ。

インチキ専門家が横行する分野で仕事をせざるをえない私は、欺瞞のない世界がこの世に存在すると考えるだけで、大きな救いを感じる。

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