タイヘの一極集中はFTAによる歪み

タイの洪水が、日本企業の現地工場に大きな被害を与えている。その影響は、世界中の生産に及び始めた。東日本大震災で自助車部品生産のサプライチェーンが損壊する問題が生じたが、それとほとんど同じことが生じている。

洪水自体は自然災害だから、いかんともしがたい。しかし、日本企業がタイに集中し過ぎていたことも小実だ。それは、「一極集中」としかいいようのない事態である。東日本大震災のときには、日本国内のサプライチェーンの一極集中が問題を深刻化させたのだが、それと同じ傾向が海外投資にもあったことになる。

自然災害に対する対策として最も重要なのは、「分散」だ。その原則が実際には守られていないことが、東日本大震災で明らかになったが、タイ洪水でも明らかになった。

日本企業がタイに集中しているのは、他のアジア諦国に比べてインフラが整伽されているからだと言われる。確かにそうなのだろう。しかし、今回の洪水によって、治水に大きな問題があることが明らかになった。そうした状況が事前に十分検討されていなかった可能性もある。ただ、それだけでなく、タイヘの集中を促した経済的要因があったことも否定できない。

それは、FTAだ。タイは、さまざまな国とFTAを結んでいる。したがって、日本企業は、タイに工場を造り、タイから輸出すれば、関税を回避できる。そうだとすれば、本来はタイ以外の国にも分散投資するのが望ましかったにもかかわらず、タイのFTAが決定を歪めたことになる。

このような「投資歪曲効果」は、タイ以外においても生じている可能性がある。特に、韓国は多くの国とFTAを結んでいるため、日本企業が韓国に生産拠点を移し、そこから輸出するという現象が生じている可能性が高い。

前回述べたように、関税同盟は「貿易転換効果」を引き起こす可能性がある。すなわち、FTAがなければA国から輸入していたにもかかわらず、A国を含まない関税同盟が結成されると、A国よりコストが高い域内B国からの輸入に切り替わることがありうる。

右に述べたのは、現代世界においては、海外投資に対してFTAが類似の歪曲効果を与えるということだ。本来なら生産拠点をA国に置くべきであるにもかかわらず、FTAのために、条件の悪いB国に生産拠点を置く(あるいは、分散投資が十分に行われない)という効果である。

ここで、B国は日本が結ぶFTAの対象国である場合もある(その場合は、日本からB国への輸出増加が目的)が、そうでなくとも、他国と多数のFTAを結ぶ国である場合もある(その場合は、B国経山の愉出増加が目的)。

「効果はほとんどゼロ」という内閣府試算

ところで、FTAがこうした撹乱効果を持ちうるのは、新興国の関税率が高く、そこへの輸出が大きな意味を持つ場合である。しかし、今回のTPPには、そうした効果を引き起こす要素はない。アメリカの輸入同税率はすでに低いし、アメリカ以外の参加予定国は、経済規模が小さいからだ。そのため、これまで論じてきたように、ロ本の貿易に与える影響は、ほとんどない。

これを裏づけるような試算が、10月25日に内閣府から発表された。それによると、TPPの実質GDP増大効果は0.54%(金額では2.7兆円)だという。これは、ただちに発生する効果ではなく、今後10年間秤度の期間において生じると期待される効果だ。そのことを明確に伝えず、「GDP2.7兆円増加」と見出しに示し、ただちに大きな効果が生じるような印象を与える報道をしていた新聞が多かった。これはきわめてミスリーディングであり、問題だ。

仮にGDP増大効果が10年間等率で進行するとすれば、年平均の増加率は、0.0539%になる。金額では2695億円だ。つまり、「事実上、効果がない」ということである。

内閣府試算は、算定根拠が公表されていないので、どのような効果が含まれているのかは不明である。関税引き下げによって日本からの輸出が増大する効果だけでなく、農産物の輸入が増加することの効果も含まれていると考えられる。しかし、これらがどの程度の比重になっているのかは、不明である。

ただし、このすべてを輸川増大効果だと考えると、2010年の日本の総輸出額は67.4兆円なので、右で述べた2695億円は、その0.4%になる。

本連載の第584回で、これまで日本が締結したFTAやEPAの効果を最大限に見積もる場合においても、今回のTPPが日本の総輸出を増大させる効果は0.4%だと述べた。これと内閣府試算は、偶然ではあるが一致している。

ISDは日本に一方的に不利な取り決めか?

TPPの問題としてISD(Investor State Dispute)条項が指摘されることがある。これは、相手国政府の政策で企業が損害を被った場合、政府を提訴して賠償金を請求できる仕組みだ。韓国では、アメリカとのFTAにおいてこれが韓国の不利になる「毒素条項」だとして問題にされている。

確かに憂慮されるような事態が絶対に生じないとは言えない。しかし、ISD条項がアメリカだけにとって一方的に有利に働くこともないだろう。日本がアメリカ政府の不当な政策を訴えることもできるからだ。

判定は世界銀行傘下の仲裁委員会で行われる。したがって、アメリカ企業が自らの利益のために結論を一方的に左右できるわけではない。アメリカ議会を相手にするよりは、公平な結果を期待できるだろう。

これに関連して思い出されるのは、1980年代の日米貿易摩擦の中で登場した「スーパー301条」条項だ。これは、「包括通商・競争力強化法」の対外制裁に関する条項の一つであり、貿易相手国の不公正な取引慣行に対して当該国と協議し、問題が解決しない場合に報復関税を設定しうるとした条項である。

日本政府が教育用コンピュータのOSとして「トロン」を採用しようとしたところ、アメリカ通商代表部がトロンをスーパー301条に登録した。このため、トロンの市場進出はブロックされたと言われる。こうした問題が生じたとき、ISD条項があれば、日本はアメリカ政府を提訴できたわけだ。

スーパー301条は国際的にも悪評高い措置だったので、日本が勝てた可能性は十分ある。ただし、現在の状況は80年代とはかなり違う。製造業の分野で日本企業が提訴されるような事態は、もう考えにくい。

現代の世界で提訴される可能性が最も強いのは、中国政府だろう。数年前にグーグルは中国政府と衝突した。このとき米中間にISDがあれば、グーグルは中国政府を提訴したことだろう。知的財産権が絡む問題でも、中国には問題が多い。

これを考えても、中国がアメリカとのFTAやTPPを締結することは考えられない。アメリカの輸入関税がゼロになったところで、中国の対米輸出が伸びるわけではない。関税率いかんにかかわらず、中国の対米輸出は伸びるのだ。それにISDが加われば、中国がTPPに入るインセンティブはまったくない。

「日本がTPPに入れば中国も入るだろう」という意見があるのだが、そうしたことが起こるとは、とても考えられない。

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