「ふるさと納税」が招くモラルの低下

「ふるさと納税」の概要が決まった。寄付税制を活用し、自治体に寄付すると寄付額が税額控除される。2008年度税制改正での実現が目的とされている。

「ふるさと納税」は、財政の基本原則を侵す重大な問題を含んでいる。まず、地方税における受益原則との関係がある。これについてはかつてこの欄で論じた。今回示されたように寄付税制で税額控除が認められると、寄付税制の観点からも重大な問題が発生する。以下では、これについて論じることとしよう。

まず、寄付税制における所得控除と税額控除の違いについて説明しよう。寄付税制は、これまで所得税と法人税において設けられていた。そこでは、寄付は所得控除(または損金算入)されることとなっていた。

?たとえば、限界税率20%の人が1000万円の寄付をしたとしよう。この全額について所得控除が認められると、課税所得が1000万円減少し、納税額は限界的に200万円減少する。したがって、1000万円の寄付のうちの200万円は納税額の減少で賄われるが、残り800万円は自己負担となる。800万円の拠出は、見返りなしの利他的行為である。

寄付金に税額控除は本来ありえない

そもそも「寄付」とは、自己犠牲を伴う利他的行為だ。だからこそ寄付は崇高な行為と見なされ、寄付者は社会的な尊敬を受けるのである。寄付税制において納税額の減少でカバーできぬ部分が残り、それが自己負担となるのは、そのような「寄付」の本質から言って、当然のことなのである。

ところが、仮に寄付が税額控除されると、自己負担は発生しない。右の例の場合、1000万円の寄付の全額について税額控除が認められると、納税額は限界的に1000万円減少する(なお、「ふるさと納税」においては、住民税の1割が限度とされている)。したがって、1000万円の寄付のすべてが納税額の減少で賄われることとなり、寄付者の自己負担はゼロになる。つまり、寄付者は、自分の懐を少しも痛めることなく「寄付」することができるわけだ。

これは、「見返りなしの利他的行為」ではない。したがって、本来は「寄付」とは言えないものだ。これは、税の使途を納税者が自ら決めること以外の何物でもないのである。

税の使途を個々の納税者が決めることは、「税」の主旨から言って、認められない。税として集められた資金は、国会あるいは地方議会によってその使途が定められなければならないのである(寄付税制は、それに例外を設けるものである。一部の納税者が税の使途を恣意的に決めれば、他の納税者は迷惑を被る。このため、寄付税制は、これまで国税にしかなかった。住民税の場合、納税者の総数が少ないため、他の納税者の負担が大きくなる。このため、寄付税制は地方税にはなじまないと考えられてきたのである)。

したがって、寄付税制では、これまで所得控除しか認められてこなかった。これは、世界中どの国でも同じである。それは、これまで述べたことからして、当然至極のことなのである。

ところで、日本の寄付税制で所得控除しか認められていないかと言えば、じつはそうでもない。日本にも、例外的に寄付(の一部)が税額控除される場合がある。それは、政治団体への寄付だ。私は、これがいかなる理由で正当化されているのかを知らないが、理由は薄弱であると思う。これは、政治的なごり押しによって導入されたとしか思えない制度だ。

もちろん、自治体に対する財政援助型のすべてに優先する緊急のものなら、寄付金を税額控除する余地もあるだろう。しかし、自治体より財政援助の緊急度が高い対象は山ほどある。それらには所得控除により自己犠牲を要求し、「ふるさと納税」の場合に要求しないのはなぜなのか? これはまったく理解できぬことだ。「ふるさと納税」で税額控除方式が認められれば、正当化できない寄付税制がもう1つ増えることになる。それは、寄付税制を徐々に侵食してゆくだろう(事実、NPOに対する寄付も税額控除せよという要求がすでに登場している)。

さらに、寄付行為そのものに対しても、無視しえぬ悪影響が及ぶだろう。すでに述べたように、自己犠牲があるからこそ、寄付は崇高な行為と見なされるのである。犠牲を伴わぬ行為を「寄付」と呼ぶことにすれば、本来の寄付がこれまで獲得していた社会的な評価は希釈されてしまうだろう。そうなれば、本来の寄付を行なおうとする人は減少するだろう。これは、言葉の危機であるだけでなく、寄付の危機である。

もっとも、日本では、寄付に関するモラルはすでに崩壊しているのかもしれない。それは、法人の行なう寄付が中心で、個人が行なう寄付はそれほど多くないことに表れている。

寄付とは、本来は個人が行なうものだ。なぜなら、個人が所得の一部を寄付したところで、他人に負担がかかることはないからである。個人が自由に使える資金から一定額が差し引かれるわけだから、個人が自由に使える資金はそれだけ減る。個人が寄付する場合、その負担者は明確だ。

自己犠牲を伴わない寄付は寄付行為ではない

ビル・ゲイツもウォーレン・バフェットも、個人が寄付をしているのであって、マイクロソフト社やバークシャー・ハザウェイ社が寄付しているわけではない。したがって、寄付税制は、本来は所得税だけに存在すべきものである。ところが、日本では法人税にも寄付税制があり、しかも限度額などで、所得税より寛容な制度となっている。

しかし、株式会社が寄付をする場合、役員の報酬がそれだけ減るわけではない。寄付の負担をするのは、株主(あるいは製品購入者)である。したがって、企業の寄付は、本来は株主からの訴訟の対象となりうるものだ。日本の企業でそれが問題にされないのは、株主意識が弱く、企業は役員の所有物だと考えられているためだろう。企業の役員は、可処分所得を減らすことなく、寄付による社会的尊敬を得ることができる。

これは、税額控除の寄付税制において自己負担がゼロになるのと同じで、まことにおかしなことだ。日本社会では、寄付の実質的な負担を、寄付者以外の人がするのである。「ふるさと納税」の場合には他の納税者が。企業の寄付の場合は株主や製品購入者が。

日本の寄付税制は不十分であり、アメリカ並みの充実が必要と言われる。そうした議論に一定の意味があることは事実だが、これまで述べた日本の寄付の実態を考えると、無条件で賛成するわけにはゆかない。

なお、寄付と同じことが、「ボランティア活動」についても言える。これは、本来は自己犠牲によって行なう活動のはずである。しかし、「有料ボランティア」という制度があるし、ボランティア活動が大学の単位として認められる場合もある。こうしたことが普通になれば、人びとはボランティア活動で報酬や単位を得るのを当然と考えるようになり、自己犠牲の精神など忘れてしまうだろう。

自己犠牲を伴わぬ行為が、「寄付」とか「ボランティア」という仮面をつけて、堂々と歩き回っている。そうした社会は、唾棄すべきものだ。日本は、基本的な道徳観が崩壊した社会になったと考えざるをえない。「ふるさと納税」は、その傾向を加速することになる。

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