復興財源の最良の教科書

「復興財源は国債に頼るべきでない。なぜなら、国債は負担を将来世代に移すからである」

復興財源についての議論の中で、こうした意見を頻繁に聞く。

しかし、この考えは間違いである。国債が内国債である限り、負担を直接に将来に移すことはできない。国債であっても税であっても、負担を今の世代が負うことに違いはない。この2つの財源調達手段の違いは、犠牲にされるものの違いである。国債に頼る場合には、主として投資が犠牲にされる。それに対して、税が用いられる場合には主として消費が犠牲にされる。

したがって、「復興財源として国債に頼るか税に頼るか」という選択は、「現世代が負担するか、将来世代が負担するか」の選択ではなく、「投資を犠牲にするか、消費を犠牲にするか」の選択である。

内国債はなぜ負担を将来に移す機能を持たないのか? その理由は、前回書いた。同じことを別の仕方で説明すれば、内国債とは、「自分自身に対する債務」だからである(We all owe it to ourselves)。

ある家族が銀行から借り入れれば、その時点で家族が使える資源量は増える。そして、子供がそれを返却するときには、家族が使える資源の量は減少する。その意味で、借り入れは負担を子の世代に移す機能を持つ。

しかし、夫が妻から借り入れても、家族全体として使用できる資源量は増えない。将来時点で夫が妻に返却するときも、家族全体として使用できる資源量は減少しない。だから、子は負担を負わないのである。

内国債とは、夫が妻から借りるのと同じものだ。「国債が負担を将来に移す」と考えている人は、「家計の外部からの借り入れ」という誤ったアナロジーでない国債を理解していることになる。

じつは、このことは、これまでもさまざまな機会に何度も書いた。しかし、何度でも繰り返す必要があると思う(「1000回繰り返す必要がある」とサミュエルソンも言っている)。なぜなら、それは復興財源を考える際の最重要のポイントだからだ。今回の復興財源をめぐる議論で、経済学者の中にもナイーブな誤りにとらわれている人が多いことがわかって、私はショックを受けた。

サミュエルソンの『経済学』に代弁してもらう

誤解にとらわれた人びとを説得するには、私が声をからすより、権威に登場してもらうほうが手っ取り早い。そこで、サミュエルソン教授の名著『経済学』に助けを借りることにしよう。「国債か税か」という問題は、第18章で議論されている。

この議論は「『1人の小さな商人の借り入れについて正しいことは、政府の負債についても正しい』という非科学的な信念に心を惑わされてはいけない」という警告から始まる。これが上で述べたことである(内国債は外からの借り入れではない)。

それに続けて、サミュエルソンは言う。

「『内国債は、戦争の負担を将来世代に移せる。税は、その負担を現在の世代に課す』という考えは正しいか? 1000回繰り返して言うが、その考えは間違いである」

「戦場で敵に投げつけるべきものは、現時点の弾丸である。将来時点の弾丸を現在の敵に投げつけることはできないのである」

「弾丸を中立国から借りてくることはできる。その場合には、孫の世代がその弾丸を返す必要がある。しかし、貸してくれる中立国がなければ、現在の世代が、資源を現在使われている用途から、弾丸の生産に振り向けるしかない」

じつは内国債でも、将来に負担を与えることはある。この問題についてここで詳しく論じる余裕がないが、主として資本蓄積が減少することによって負担が生じるのである。

これは、右で述べたナイーブな意味での負担転嫁とは違うメカニズムだ。経済学で「国債の負担」として論じられてきたのは、この問題である。

復興財源調達は戦費調達と同じ

私が持っている第4版(1958年)の第36章は、「戦争と国防の経済学」となっている。ここで議論されているのは、「税と国債のどちらで戦費を賄うべきか」という問題である。

この議論は、復興財源を考える際の最良の教科書になっている。なぜなら、復興とは、戦争と同じものだからだ。復興過程では、日常生活で通常必要とされる財・サービスのほかに、復興投資が必要になる。それは、戦争において、兵器の生産が必要になるのと同じことである(ただし、違う点もある。兵器は「消費」であり将来の生産力には寄与しないが、復興投資は将来の生産を増強させる。また、復興のための負担は、世界大戦のような総力戦の負担ほど大きくはない)。

この章は後の版では削除されている(60年代になって、戦費やヒットラーを論じるのは、いかにも時代遅れと感じられたからだろう。邦訳には、旧36章は存在しない。なお、先に引用した18章の内容も、旧版のものだ。邦訳の内容は、基本的には同じだが、表現が違う)。復興財源問題の議論で、権威に弱い人びとを説得するために、旧36章は残しておいてほしかった。

この章で、サミュエルソンは次のように言う。

「第1次世界大戦以降、経済学者は、政治家と大衆に対して、次のようなアドバイスを行なってきた。『戦争の支出のために、より多く税に頼れ。国債に対しては、これまでよりも少なく頼れ』。それは、インフレ防止のため、またはインフレ圧力の軽減のために必要だ」

「戦時予算は、国債にまったく頼らない均衡予算であるべきだ。できることなら、支出以上に税を課す黒字予算(超均衡予算)であるべきだ」

「インフレは、戦時中というよりは、戦後に起こる。戦費の多くを税でなく国債で賄った国ほど、戦後のインフレが激しくなる」

つまり、サミュエルソンの結論は、おおまかに言えば、「税か、さもなければインフレか」ということだ。

この結論は、デフレに悩む今の日本では、説得力がないと思われるかもしれない。そう考えられるのも無理はない。じつは、サミュエルソンがこの教科書を書いたときに比べると、市場経済は大きく発展したからだ。第1に、金利が自由化されて、資金需要に応じて金利が変動するようになった。第2に、変動為替制に移行した。第3に、国際間の資本移動が自由化された。

このような経済では、戦争支出や復興投資が増大したとき、金利が為替レートが働いて、他の需要を抑制することが可能だ。金利が高まれば、投資を削減できる(復興投資のため、通常の設備投資や住宅建設を抑制する)。円高になれば、純輸出が減る。したがって、「需要抑制手段としては、増税かインフレしかない」というわけでなくなった。いわば、選択肢が増えたのである。

ただし、そうした選択肢を使うには、金利の上昇や円高を容認する必要がある。それらを拒否すれば、選択肢は、結局のところ増税かインフレしかなくなる。

最初の設問に戻ろう。復興財源として国債が望ましくないのは、「負担が将来に転嫁される」からではない。前回述べたように、私は対外資産の取り崩しというかたちで負担が将来に転嫁されるほうが望ましいと考えている。これが実現できないのは、円高が拒否されるからである。

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