「比較優位の原則」はさまざまな対象に必要

前回述べた「比較優位の原則」は、外国との貿易に関して直接の意味合いを持っている(リカードがこの理論を考えたのも、「穀物法」による小麦の輸入禁止に反対するためだった)。

たとえば、前回の説明において、「わが家と隣家」を「日本と中国」に、「リンゴとミカン」を「技術的に高度な資本財と大量生産の消費財」にそれぞれ置き換えて解釈すればよい。そう考えれば、日本が資本財に、中国が消費財に特化することにより、互いが利益を得られることがわかる。

さまざまな国は、その国が相対的優位性を持つ産業に特化し、その生産物を輸出する。そして、その国の条件から見て相対的に不利な生産物は、他国から輸入する。こうした貿易を行なうことによって、生活水準が向上するのだ。

第二次世界大戦後の日本は、領土拡張という方法に頼るのでなく、また食料自給にはこだわらず、工業化を進めてきた。それは、比較優位の原則にあった方向だった。だから、日本は現在のように高い生活水準を達成できたのである。日本はこの意味で世界の優等生だったといえる。仮に、軍国主義を捨てられなかったら、あるいは食料自給率100%確保という目標にとらわれていたなら、日本人はいまだに低い生活水準にあえいでいただろう。

量的に拡大しなくても豊かさを実現できる

ここで重要なのは、「比較優位の原則に従って交易をすれば、領土拡張をしなくとも、あるいは無理に経済成長を高めなくとも、豊かになれる」という点だ。つまり、必ずしも量的に拡大しなくともよいのである。

ところが、今の日本には、「量的に拡大しないと豊かになれない」という思い込みにとらわれた人が多い。つまり、「交易の利益というものが存在する」という点が忘れられてしまっている(あるいは、その存在を知らない)。

たとえば、「出生率が下がって人口減少社会になったので、経済成長を望めない。だから出生率を上げよう」という考えが支配的だ。また、安倍晋三内閣は、「イノベーションに期待して経済成長率を高めよう」と言っている。

イノベーションは確かに望ましいことだ。それを実現できれば豊かになれるのは間違いない。問題は、それを実現できるかどうかが確実ではないことである。出生率の引き上げに至っては、そのための方策さえわからない。

そして、どちらにも共通するのは、「豊かになるには、量的に拡大するしか方法はない」(経済学の概念を用いれば、「生産フロンティアを拡大するしか方法はない」)と考えている点だ(出生率引き上げ論は労働力の増加により、イノベーション論は技術進歩により)。しかし、比較優位の理論は、生産フロンティアを動かさなくとも豊かになれることを示しているのである。

また、食料自給率を高めるべしとの議論が、きわめて強い。資本の自給率が低いのは事実だ。カロリーベースの自給率で見ると、最近40%を切った。これは、アメリカ119%、オーストラリア230%などに比べて低いのはもちろんのこと、イギリス74%、ドイツ91%などに比べても低い。また、時系列的に見ても、1961年78%、80年53%などと、時間を追うほどに低下している。自給率低下のニュースで、「自給率引き上げ論」が一段と声高に論じられるようになった。

しかし、これまでの説明から明らかなように、比較優位原則を無視して自給率にこだわるのは、合理性を欠く、愚かな考えである(さらに、食料確保の安全性の観点からも、供給源を分散させるほうがよい)。

また、比較優位は条件が変化すれば変化する。高度成長期の日本が製造業に比較優位を持っていたことは事実だが、中国が工業化した今、製造業における比較優位は失われている。

したがって、新しい条件にあった新しい産業構造に転換しなければならない。それにもかかわらず、高度成長期から続く製造業中心の産業構造に執着する考えが強い。

さて、比較優位の考えは、貿易だけでなく、国内問題に対しても適用できる。これは、分業をいかに進めるべきかに関して、基本的な考えを提供してくれるのだ。それにもかかわらず、経済学のカリキュラムでは、「国際経済学」という狭い枠内に押し込められている。これはいかにももったいないことだ。

たとえば、「企業がさまざまな分野を手広く手がけるほうがよいのか、それとも得意分野に集中するほうがよいのか」という問題は、この原則によって考えることができる。

これは、前回用いた例で言えば、「リンゴとミカンを各戸で作るのがよいのか、それともどちらかに特化したほうがよいのか」ということだ。前回説明したことからただちにわかるように、後者がよい。すなわち、「選択と集中」が必要である。

量的拡大を目指す企業は領土拡張の軍国主義に等しい

このような分業化した生産が顕著に実現している例として、PC(パソコン)がある。マイクロソフトはOS(基本ソフト)に、インテルはCPU(中央演算処理装置)に集中する。その他の部品も各企業が生産し、それを組み立てメーカーが集めて組み立てる。つまり、各企業が比較優位分野に特化し、それらが市場を通じて結びついているのである。

このような生産方式を、「水平分業」という。日本の総合電機メーカーは、いまだに水平分業を実現していない。それ以外の企業も、業務の一部をアウトソースすることに、きわめて消極的だ。

そして、量的拡大だけを目指す企業が日本には多い。前回の例を用いれば、これは、庭を広げようということだ。それは基本的発想において、領土拡張の軍国主義と同じものだと言わざるをえない。

「特化と交易が望ましい」ということは個人レベルでも言える。「なんでもかんでも自分でやる」というのが望ましいのではなく、餅は餅屋に任せ、各人が得意分野に集中することがよいのである。

たとえば、自分で家具を作ったり家を修理したりするのは、趣味として行なう場合は別として、費用を節約したいのであれば、専門の職人に任せるほうが効率的である(前回の例の「リンゴ」を「あなたの本来の仕事」とし、「ミカン」を「家具」と置き換えて考えればよい)。

この観点から見ても、個人レベルでリスク資産の運用を行なおうという「貯蓄から投資へ」の考えは、誤っている。「資産ポートフォリオの作成」などという面倒なことは専門家に任せ、個人は各自の仕事に集中すべきだ。

さて、以上で述べたような考え方は、初等教育で教えるべきだ。このような基本的思考法のトレーニングができていないから、「食糧自給率を高めなければならない」というプロパガンダに簡単にだまされてしまうのである。

「小中学校で金融教育をしよう」という提案がある。そこで想定されているのは、たとえば、「株式市場の仕組み」というようなことだろう。しかし、こんなことは学校で教えるまでもないことだ。また、小中学生が株式市場の仕組みを熟知したところで、なんの利益もない。それより重要なのは、「比較優位の原則」のような基本的な考え方を教え、しっかり身につけさせることだ。

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