経済的理由によって戦争は正当化できない

終戦記念日に黙祷すると、木が1本もなくどこまでも続く焼け野原が、まざまざと思い出される。そして同時に、こうした記憶をこのあとどの世代まで伝えられるかと、不安になる。

戦場体験のある人びとは、すでに大部分が没している。われわれの世代は、空襲や焦土の記憶を持つのみだが、それもやがては去ってゆく。戦争の記憶が日本の社会から薄れてゆくのは、避けがたいことだ。

あらゆる努力によって戦争を避けなければならない最大の理由は、言うまでもなく、戦争が悲惨な結果をもたらすからである。しかし、もう1つの理由がある。それは、戦争が問題解決の手段として合理的なものではないことだ。「戦争は他の手段による政治の継続である」とクラウゼヴィッツは述べた。しかし、私はこの考えに同意できない。経済的な観点から見る限り、戦争は問題解決の手段として合理的なものではない。

戦争を損得勘定で判断するのは、問題を矮小化するものと批判されるかもしれない。実際、宗教上の理由や人種差を原因にした戦争が数多くあることは事実である。しかし、近代における大規模な戦争は、経済的理由によって正当化されたのである。ナチスドイツは、東方領土拡張を「ドイツ民族の生存圏(Lebensraum)確保のため」と正当化した。日本の軍部は大東亜を日本人の「絶対的生存圏」とし、満州進出を正当化した。

このような考えは、経済的な観点から見て、正当化されるだろうか?

これは、戦争を冷静に見つめるために、ぜひとも考えられるべきことである。実体験に裏づけられた戦争の記憶が薄れつつある民族にとって、こうした観点からの戦争の意味を認識することは、ぜひとも必要なことだ。

「比較生産費の理論」その基本的なメッセージ

結論を言えば、「生存圏」の考えは正当化できない。領土を拡大しなくとも、交易によって豊かさを実現できるからである。

このことを、次のような仮想的な数値例で説明しよう。以下の例は、戦争という重大な問題を考えるには、いかにも単純と思われるかもしれない。半面で、数値例は煩雑と考えられるかもしれない。しかし、問題の本質をわかりやすく示すには、このような単純な例が役立つ。また、煩瑣に見えるとしても格別難しいことを言っているわけではないので、少し我慢して読み進んでいただきたい。

さて、仮想例は、あなたと隣家の家庭菜園だ。あなたの庭では、ミカンだけなら60個作れるが、ミカンを1個減らせばリンゴを1個作れるとする(したがって、リンゴだけなら60個作れる)。隣家では、ミカンだけなら40個、ミカンを4個減らせばリンゴが3個作れる(したがって、リンゴだけなら30個作れる)。そして、ミカンもリンゴも必要であるとする。

この場合、たとえば「ミカンとリンゴを、あなたは30個と30個、隣家は20個と15個作る」というような「個別生産」は可能である。しかし、もっと合理的な方法があるのだ。それは、あなたがリンゴだけを60個、隣家がミカンだけを40個作り、その一部を交換することである。

たとえば、ミカン12個に対してリンゴ10個の比率で交換するとしよう。あなたがリンゴを30個売ると、ミカンを36個入手できる。したがって、あなたはリンゴ30個とミカン36個を消費できる。つまり、個別生産の場合に比べて、ミカン6個だけ余計に消費できるのだ。

もちろん、この取引に隣家が同意してくれなければ、話にならない。そこで、隣家の消費を調べてみると、リンゴは30個で、ミカンは4(=40-36)個だ。個別生産の場合に、リンゴを30個作ればミカンはゼロなのだから、明らかに有利になっている。

つまり、生産特価と交換によって、取引の双方が個別生産の場合より望ましい状態を実現できるのである。これは、リカードが見出した「比較生産費の理論」であり、経済学の最も基本的なメッセージだ。

なお、交換の比率や交換数量は、ここに挙げたものでなくともよい。交換比率がリンゴ3個に比べてミカン3個から4個のあいだの値であれば、特化と交換によって、必ず個別生産より望ましい状態を実現できることが確かめられる。

また、隣家の庭が広くなったので、「ミカンだけなら68個、リンゴだけなら51個」(ミカンとリンゴの生産比率は変わらないことに注意)ということになれば、「あなたがリンゴに特化し、隣がミカンに特化すべし」ということを納得しやすいかもしれない。この場合は、特化する場合の各主体の数量が、ほかの主体より多くなるからだ。しかし、右の例のような場合にも特化と交換は有利なのである。問題となるのは、数量ではなく、比率である。

豊かさを達成するためには戦争より優れた手段がある

さて、以上で述べたことは、一見したところ「無から有を作り出す」魔法のように見える。しかし、魔法ではない。

右の例で、「ミカン12個対リンゴ10個」という交換比率をあなたの立場から見れば、リンゴを手放すことに有利な率だ(自分の庭では、リンゴ10個を手放してもミカン10個しか手に入らないのだから)。

だから、リンゴを生産しておき、それを市場で手放してミカンを入手するほうが(生産においてリンゴを犠牲にするよりは)、よいのである。あなたはリンゴの生産に「相対的な優位性」を持っているから、それを利用すべきなのだ。隣家の立場から見れば、ミカンを手放すのに有利な比率だから、ミカンの生産に特化し、市場でリンゴを購入するのがよい。

では、戦争とは何であろうか。このモデルで「戦争」を記述すれば、あなたが隣家に侵入し、樹の何本かを「わが家のものだ」と囲い込んでしまうことである。あるいは、隣の主人を屈服させ、毎年の生産物の一部を供出させることである。いずれにしても、あなたは暴力に訴えてこれを実現しようとする。

これに成功すれば、あなたが豊かになるのは事実である。襲撃前には「ミカンとリンゴを、あなたは30個と30個、隣は20個と15個作る」という状態であった場合、隣のミカンの6個を戦利品として獲得できれば、あなたはミカンを36個消費できる。

では、この方法のどこが問題なのか? まず、当然のことだが、敗戦者である隣家は貧しくなる。そのミカン消費量は、20個から14個に減少するからだ。

より重要な問題は、あなたの襲撃行為は失敗するかもしれないことだ。隣家の反撃に遭って、あなたの庭が破壊されてしまうかもしれない。そうなれば、消費量はかえって減少してしまうだろう。

ところで、こうした暴力行為に訴えなくとも、あなたはリンゴ30個とミカン36個を獲得できたはずなのである。それが、すでに述べたことだ。「戦争は経済問題の解決法として合理的なものではない」というのは、この意味である。

「戦争が悲惨な結果をもたらすから、どうあっても避けなければならない」。これは当然のことだ。そして、永遠の真実である。しかし、日本社会におけるこのメッセージの迫力は、数十年前に比べて衰えている。だから、「豊かさを達成するために戦争より優れた手段がある」と多くの人が納得することは、きわめて重要だ。

Comments

comments

Powered by Facebook Comments