政策論議を歪めるマスメディアの構造

参議院選挙が間近だというのに、国の将来を問う議論が聞こえてこない。言うまでもなく、論議すべき問題がないわけではない。まったく逆であって、問題は山積している。経済問題に限っても、選挙が終われば消費税増税がアジェンダに挙がるのは必至だ。

一時は議論された法人税減税もいつの間にか消えてしまったが、財界が減税要求を引っ込めたわけではないので、選挙後に復活する可能性はある。日銀政策金利の引き上げも、選挙後に行なわれるだろう。

これらはいずれも、日本経済の進路に重大な影響を与える問題である。それにもかかわらず、選挙の争点として議論されていない。選挙前には政策論争を封印し、選挙が終わってから重大な政策決定を次々に行なうというのは、どう考えてもまともな政治体制とは思えない。

こうなる大きな原因の1つは、マスメディアの構造にあると考えざるをえない。新聞とテレビという主要なマスメディアが寡占構造になっているために、誰もが関心を持つ対象についての、誰でも理解できるレベルでの論議しか行なわれない。報道される意見の幅は、著しく狭くなっている。

日本のテレビでは込み入った議論はできない

言うまでもないことだが、民主主義社会が成立する基本的前提は、多様な意見の存在だ。人びとの立場はそれぞれ異なるのだから、複数の異なる意見が存在するのは当然だ。誰もが同じようにしか考えないのであれば、選挙は人気投票を行なうお祭りにしかならない。

政策について話をしていると、相手の意見があまりにステレオタイプであるのに驚くことがある。たとえば、「小泉内閣は構造改革を行なった」ということを、なんの疑いもなく信じている。郵政民営化は、それを進めて日本を改革しようとする官邸と、利権にしがみつく反動勢力との争いとしてしかとらえられていない。

たぶん、テレビでの問題のとらえ方がこのようなものになっているからだろう。こうした要素がまったくないわけではない。しかし、現実の問題はもっと複雑だ。

現在社会における利害関係は錯綜しているため、人びとは自分の位置を常に正しく理解しているわけではない。

たとえば、年金問題における利害対立とは、主として世代間のものである。若い世代は、退職後世代の恵まれすぎた年金給付のために負担を押し付けられるわけだから、できるだけ早期の給付水準見直しを求めてしかるべきだ。しかし、そうした意見はほとんど聞かれない。彼らは、年金問題における自らの利害関係を把握できないのだ。

したがって、マスメディアに多様な意見が登場することが、きわめて重要だ。ところが、日本のマスメディアは、そうした構造にはなっていない。あらゆる社会階層と世代、そしてすべての地域を共通の視聴者や読者としているからだ。

だから、特定世代や特定地域のために論陣は張りにくい。年金問題において、「高齢者の年金をカットせよ」とは、とても言えないだろう。「ふるさと納税」については、「賛成意見もあるし反対意見もある」といった取り上げ方しかできない。

テレビの場合、時間的制約が厳しいため、さらに制約が加わる。芸能番組もドラマもあるので、政策論議に割ける時間はきわめて限定的だ。インタビューで意見を表明できる時間は、せいぜい1分間である。その時間内で意見を言うとなると、通常言われているのと大きく異なる意見を述べるのは、きわめて難しい。

したがって、テレビには、誰でも受け入れられるような意見しか登場しない。一般に理解されているフレームワークに入らない利害対立構造を指摘しても、相手にされない。たとえば、「FTAや東アジア共同体は必ずしも望ましいものではない」と言っても、まったく理解されない。

また、専門的な内容を含む論理が込み入った議論は行なえない。私自身の経験だが、法人税が企業投資に与える影響を説明しようとしたところ、番組で話している途中で遮られたことがある。「そんな難しい話をしても、視聴者には理解できない」というのだ。そうかもしれないが、それでは「法人税減税は是か非か」という政策論議はできない。「法人税率が高いと企業活動が萎縮する」といった類いの俗論に異を唱えるのは難しい。

したがって、テレビの政策論議は単純な二分法になり、「善玉と悪玉の戦い」になる。富者と貧者、大企業と零細企業、都市と地方などだ。そして、官僚は常に悪く、民営化は常に望ましい。こうして、“小泉流ワン・フレーズ・ポリティックス”が幅をきかす。扇動的な言葉に影響されやすく、水に落ちたイヌは徹底的にたたかれる(その半面で、鳴き声の大きなイヌには手が出せない)。また、大事件が起きると、右往左往して意見が大きくぶれる。

日本のテレビにおける政策論議は、基本的にはこのようなレベルのものになっている。それは床屋談義であり、井戸端会議である。新聞はテレビに比べれば多様な意見が登場しうるとはいえ、全国紙、一般紙という制約から逃れることはできない。だから、テレビとの差は程度の差でしかない。

全国紙がテレビを支配する寡占体制は日本独自の構造

ところで、以上で述べた構造がどこの国でも同じかと言えば、そうではない。現代のマスメディアが大企業にならざるをえないのはどこの国も同じだが、多様性には大きな違いがある。特に、アメリカと日本にはかなりの差がある。

まず、新聞の構造が大きく違う。日本では全国紙の比重が大きく、地方紙の数も限定されている。それに対してアメリカには、全国紙はないに等しい。少なくとも、普通の市民が日常的に読んでいる新聞は、きわめてローカルだ。

日本にも戦前には地方紙が多数存在したのだが、第二次世界大戦中の「新聞事業令」による統廃合と「一県一紙運動」によって、地方紙の数は激減した。そして、全国紙の地位が高まった。戦時下で国論の統一が必要と考えられたための措置であったが、今に至るまで、日本の新聞はこのときに形成された構造から脱却していない。その全国紙がテレビをも支配する構造になっているため、日本の主要なマスメディアは極端な寡占体制となっている。

アメリカでもテレビの全国ネットワークは寡占体制だが、そのほかに、かなりの数の地方局が存在する(それらが新聞の全国紙に系列化されるような状況は、もちろん存在しない)。

そして、PBS(公共放送サービス)のようにきわめて質の高い放送を行なう公共テレビ局もある(PBSの放送内容はNHKよりずっと質が高い)。ケーブルテレビが主流であるため、多数のチャンネル確保が技術的に可能で、かなりの多様性が実現しているのだ。

日本のテレビは地上波中心であるため、技術的にチャンネル数がごく少数に制約される。それが新聞社とほぼ1体1対応で経営されるので、多様な意見の報道はきわめて難しい。

日本のこの状況が、近い将来大きく変わるようには思えない。特に問題なのは、テレビの地上波中心体制が続くことだ。デジタル放送が地上波で行なわれるというのは、私にはまったく理解できないことだが、それは既定路線になっている。したがって、以上で述べた日本のマスメディアの歪みは、将来に向かってむしろ拡大するだろう。

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政策論議を歪めるマスメディアの構造” への1件のコメント

  1. 野口氏の予言通り消費税の増税論議が政策課題に挙がってきましたね。
    相変わらず鋭いご指摘です。

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