携帯電話のマナーを中国人に徹底させよう

新幹線の車内やレストランで、中国人観光客が携帯電話で話しているのを聞かされる場面が増えたように思う。

1990年代の中頃に、日本で携帯電話の使用が広がり始めたときと似た状況だ。危機感を覚えた私は、この連載で何度もこの問題について述べた。このときは、幸いなことに、マナーが確立された。今、ある程度以上の水準のレストランで携帯電話での話し声を聞くことは、ほとんどない。新幹線の車内も、完全とは言えないが、かなりの静寂は維持されている。携帯電話の使用マナーに関して、日本は世界最高水準にあると言ってよいだろう。

この状態が、中国人観光客の影響で壊されてしまうことが危惧される。

レストランであれば、携帯電話を使用する客が多いとわかったら、次には行かないことにすれば、被害を免れることができる。しかし、新幹線の車内ではそうはゆかない。近くの席で話されては、逃げようがない。英語で注意しても、理解されない。新幹線の車内は、最近PC用の電源も配置され、理想的な仕事の場になりつつあると喜んでいた。それを中国語の携帯電話で乱されてしまうのは、なんとも残念なことだ。

ある程度以上広がってしまうと、止められなくなる危険がある。それに影響されて、日本人のマナーが崩れてしまう恐れもある。

私は、「中国人観光客のマナーが悪い」と非難しているわけではない。中国では、鉄道社内やレストランでの携帯電話使用は、ごく当たり前のことなのかもしれない。そうであれば、これは、異なる文化が日常生活レベルで接触したために生じた軋轢であり、日本社会のルールが中国人観光客に十分に伝わっていないことの結果だ。

したがって、中国人観光客に対して、日本社会のルールを徹底的に知らせる必要がある。その意味で、中国人観光客の数が増え始めた今は、クリティカルな時期だ。

禁煙の注意は行き届いており、かつ実行されていると思う。携帯電話も、静寂な環境を汚染するという意味で、タバコとまったく同じだ。日本では、携帯電話使用制限は禁煙と同じレベルのルールになっていることを中国人に教える必要がある。

新幹線で携帯電話の使用制限について、英語では放送されるが、中国語の車内放送はない。ホテルやレストランでも、テーブルの上に注意書きが必要だろう。

個々のホテルやレストランは、中国人観光客を失うことを恐れて注意しないことが危惧される。そうであれば、より一般的なレベルでの注意が必要だ。

日常生活レベルでの異文化との接触

「冒頭で述べた問題は、異文化との接触が日常生活レベルで起こったために生じた問題であろう」と述べた。

日本への外国人観光客の数は、これまで他国に比べてかなり少なかった。フランスに比べると10分の1程度である。2008年において、フランスへの外国人旅行者数は7930万人だが、日本へは835万人。現在「外国人観光客を年間1000万人に増やそう」という運動が行なわれているが、仮にそれが成功しても、南アフリカ共和国を抜いて世界第20位になるだけだ。簡単に言えば、日本はこれまで「外国人観光客が来ない国」だったのである。だから、日常生活レベルで彼らと接することが少なかった。

中国人観光客も、これまでは団体客だった。彼らの行動は、ガイドによって一定の範囲にとどめられていたのだろう。それが、今年の7月からビザの発給要件が緩和されて、状況が変わったのである。冒頭で述べた光景は、そうした変化によってもたらされたものだ。

また、移民が多ければ、さまざまな文化との共存が、社会のなかで古くからなされている。たとえば、アメリカは多民族国家なので、異なる文化を持った人びととの接触は、日常生活のレベルで頻繁にある。そうした社会では、摩擦への対処も、長い経験に基づく知恵によってなされてきた。

日本は、異文化ととの日常生活レベルでの接触が、きわめて少ない社会だったのだ。異なる文化が存在することは知っているが、それは、書籍や新聞・雑誌の記事、あるいはインターネットやテレビを通じて、抽象的な知識として得たものである。生活の中で異文化と否応なしに接することとは、基本的に違う。しかし、日常生活レベルでの異文化との接触が、日本でも広まりつつある。

だから、日本社会は、中国人観光客が増えることによって、これから基本的な変化に直面せざるをえないだろう。日本と中国の所得格差が縮小するに従って、日常生活レベルで中国人と接する機会は、今後飛躍的に増加する。

これは、たぶん日本社会が歴史上初めて経験する事態である。そうしたなかで、日本社会のルールを維持するためには、まず日本社会のルールを彼らに伝えることが必要だ。

相互理解に必要なのは市民レベルの交流

このようなレベルでの相互理解を確立するには、政府間の外交だけでは、まったく不十分だ。それに加えて、留学生や一般市民による、日常生活レベルでの接触が必要だ。

日本は、これまで西側先進国、特にアメリカとのあいだでは、そのような交流を行なってきた。そうした経験をした人は、全人口のなかでは少数であろうが、あったことは事実である。

たとえば、日本人がアメリカに留学し、アメリカ社会の中に溶け込んで、アメリカ人学生を友人、競争者として大学生活を送る。あるいは、企業の駐在員として渡米した人が、一般の住宅地に住み、アメリカ人を隣人としてアメリカ社会のルールに従った生活を送る。そのような経験があれば、「文化は違っても互いに人間」と実感することができる。

欧米以外で日本人がこうした関係を確立できたのは、おそらく韓国とのあいだだろう。私の場合について言えば、80年台に韓国からの大学院留学生が増えたため、彼らとのあいだでさまざまなコミュニケーションを行なう機会があった。それによって、それまで抽象的にしかとらえていなかった韓国のイメージは、大きく変わった。また、その後も、韓国の研究者と共同研究を行なう機会があった。こうしたチャンスがなければ、韓国に対する私の考えは、だいぶバイアスがかかったままでとどまっていたことだろう。

しかし、アジア諸国、特に中国とのあいだでは、そうした関係を築けていないと思う。中国からの留学生が増えていることは事実だが、今私が教えているのは修士課程で講義が中心であるためか、韓国人留学生とのあいだにあったような個人的に親しい関係は築けていない。

また、日本企業からアジア諸国へ赴任する駐在員は、現地住民から隔離された住宅地で生活することが多く、仕事の上での付き合いを除けば、現地社会に溶け込んでその一員として生活することが少ない。だから、市民間のコミュニケーションは、ごく限定的なものになってしまうことが多い。

しかし、最初に述べた状況は、日本とアジア諸国、特に中国との付き合いが、これまでのレベルだけではすまされないものになりつつあることを示している。われわれは、中国とのあいだで、文化の違いを克服した関係を築くことができるだろうか?

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