世界を徘徊する財政赤字という妖怪

「1匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している」(Ein Gespenst geht um in Europa)とは『共産党宣言』の有名な書き出しだが、今ヨーロッパを徘徊しているのは、「財政赤字」という妖怪だ。

ユーロ圏を中心として世界金融市場の不安定な動きが続いている。これは、経済危機で税収が落ち込み、他方で各国政府が危機対応策を取ったことの後遺症だ。国債が急増したため、保有しているヨーロッパの銀行の資産が毀損する懸念があるのだ。

ギリシャの財政危機がきっかけだったが、さまざまな国で財政赤字の問題が顕在化しつつある。スペインの状況も急激に悪化しているし、ハンガリーの問題も深刻と言われる。イギリスでも、2009年度末の財政赤字の対GDP(国内総生産)比が、政府予想の11.1%を上回り、ギリシャの12.7%を上回るとされる。

アメリカの財政赤字も拡大している。09年度(08年10月~09年9月)の歳出は前年度比18.2%増加したが、歳入は16.2%減少した。このため、財政赤字は前年度の3倍である1兆4171億ドルと、史上初めて1兆ドルの大台に乗った。GDP比では10.0%となり、前年度の3.2%から大幅に上昇した。この値は、1945年度以来最悪の記録である。つまり、アメリカは、現在戦後最悪の財政状態にある。また、日本の財政赤字がきわめて深刻であることは、言うまでもない。

こう見ると、妖怪が徘徊しているのは、ヨーロッパだけではなく、全世界ということになる。

07年以降の世界を揺るがせた経済危機は、未曾有の規模のものだったし、各国政府が取った政策も、過去に例がない大きさのものだった。したがって、その後遺症が長期にわたって残るのは、考えてみれば当然のことだ。しかも、後遺症は、国債の「残高」というかたちで残っているために、簡単には消滅しない。

今後の世界は、長期にわたって、巨額の国債残高に攪乱されることになる。世界は、これまで経験したことがなかった事態に入りつつある。今世界の金融市場で起こりつつあることは、これまでの経験では完全に対処できないものなのかもしれない。

日本の国債残高対GDP比は飛び抜けて高い

国際通貨基金(IMF)は5月14日、各国の財政状況を分析した報告書(Fiscal Monitor)を公表した。ここでは、一般政府の債務残高が分析の対象となっている。財政赤字の程度を示すために通常言及されるのは単年度の赤字だが、重要なのは、この報告書が対象としている債務残高だ。

まず注目されるのは、今回の危機によって、残高の対GDP比がどの国でも顕著に上昇したことだ。G7平均では、危機前には70~80%程度であったものが、90%を超える事態になった。

長期的な推移を見ると、第2次大戦直後のイギリスが200%を超える高水準にあったことが注目される。60年代まで100%を超えていた。その後、イギリス経済が活況を呈するようになって低下し、危機前には50%を下回る水準になった。アメリカでは80年代に上昇して70%台になったが、90年代から低下して、60%程度になっていた。

日本は、70年代中頃まではきわめて低い水準にあったが、80年代に上昇して50%を超え、さらに90年代からは100%を超えて急上昇している。10年では、227%だ。

(この分析では地方政府も含めた「一般政府」の値を示しているが、日本だけが「中央政府」となっている。なお、債務の定義は国によって一様ではないので、注意が必要である。この分析ではグロスの債務を取っているが、ネットだと日本の10年の値は122%になる。なお、財務省の資料では、10年度末の国の普通国債残高の対GDP比は134%、国と地方の長期債務残高は181%である)

このように、長期的に見ると国債残高の対GDP比と国の勢いとは、密接に関連している。イギリスは第2次大戦以降長期にわたって経済停滞に陥っていたし、アメリカも80年代は最悪の時期を経験していた。日本の90年代以降は、「失われた時代」になっている。財政赤字と経済と、どちらが原因でどちらが結果なのかははっきりしないが、両方の側面があるのだろう。

この報告は、将来の予測値も示している。どこの国でも、比率は将来さらに上昇する。先進国の平均値は15年で110%を超え、金融危機の前の水準を40ポイント近く上回る水準になる。このため、同報告は、各国は遅くとも11年には財政再建に着手すべきだと低減した。日本は歳出抑制と増税が必要だとしている。消費税率を5%から10%に引き上げれば、GDPの2.6%に相当する税収が得られるとしている。

ここでの分析は、菅直人首相の消費税増税発言や、6月下旬のG20における財政赤字削減目標の基礎になったものと考えられる。

資本蓄積が阻害され将来の生産力が低下する

国債残高が巨額だと、なぜ問題なのか。残高を縮小できないと、インフレによって経済活動が混乱する可能性がある。そうならなくとも、巨額の国債残高は、経済活動を圧迫する。

ただし、問題は簡単ではない。とりわけ日本では,現実に問題が発生しているわけではないので、わかりにくい。国債の発行が過大なら金利が上昇するはずだが、実際には、日本で長期金利上昇は生じていない。アメリカでも長期金利は下落している。

しかし、日本の場合にも、問題が深刻化していることは事実だ。なぜなら、民間設備投資も公的な投資も、きわめて低い水準に落ち込んでいるからである。つまり、金利が上昇していなくとも、資本蓄積は阻害しされているのである。

その結果、将来の日本は、工場の機械は動かず、鉄道の運行もできず、道路や橋も危なくて通れないような事態に陥る。電力やガスの供給にも支障が出るだろう。資本不足経済の生産力は、きわめて低い水準に落ち込むだろう。そうした経済では、国債の償還に必要な財源を政府が得ることができない。

それにもかかわらず、こうした問題は、きわめて認識しにくい。金利高騰が起こっていないので、問題が認識できないのだ。したがって、国債発行の削減についての合意を形成しにくいのである。

そうでなくとも、増税も歳出削減も、現実には非常に難しい。選挙を意識せざるを得ない政治家がこの問題を避けようとするのは、当然のことだ。

なお、上で述べた「国債残高の縮小が必要」とは、「増税が経済成長に寄与する」ということではない(財政再建の必要性を、こうした奇妙な論理で正当化しようとするのは、やめたほうがよい)。増税は、民間経済から資源を調達して公的部門に移すことを意味するから、短期的に見れば、明らかに経済にネガティブな影響を与える。また、消費税を増税しても、単年度の赤字は減るが、残高がただちに減るわけではないことにも注意が必要だ。

日本のグロスの残高の対GDP比は200%を超え、さらに増加し続ける。これは、人類がこれまで経験したことのない事態である。日本経済は、これからそうした領域に入る。そこで何が起きるかは、はっきりわからない点も多い。

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