都知事選での大差と『宇宙戦争』の火星人

東京都知事選挙で、石原慎太郎氏が浅野史郎氏に約110万票の大差をつけて当選したことについて、さまざまな論評がなされた。いわく、知名度に格段の差があった。カリスマ性、実行力、政府に物言う姿勢で浅野氏にはもの足りなさが感じられた。石原氏は選挙中は反省に終始した、等々。

これらの指摘は、いずれも間違いではあるまい。しかし、核心を突くものとは思えない。少なくとも、石原氏が高額海外出張費問題などをあれほど批判されながら、大差で当選できたことに対する納得のゆく説明にはなっていない。

唐突と思われるだろうが、スタニスワフ・レムの「宇宙戦争論」を最近読む機会があった(『高い城・文学エッセイ』沼野充義ほか訳、国書刊行会)。その内容と右の疑問はつながる部分があるので、これについて以下に書きたい(レムは現代ポーランドの作家。2006年3月没。『ソラリスの陽のもとに』などの著者)。

知性は無目的的行為を求めるものだ

レムは、H. G. ウェルズの『宇宙戦争』(1898年)を高く評価しながら、「1点だけ非難するところがある」とし、「それは、火星人に文化が欠けていることだ」と述べている。

「火星人は、極めて即物的な共同作業――惑星をうまく征服するための軍事的な共同作業――で用いられる倫理以外の倫理を知らない。行動の動機や思考といった点で、手段としての価値へこうも徹底的に還元される存在はまずありえない。(中略)知性は、もしそれが本物の知性ならば、生存する特権を与えてくれた生命を維持するために、自らが生産した装置を超えていなければならない」

私も『宇宙戦争』を、最高のSFだと思っている。火星人が戦闘用トライポッドを組み立てる場面の、なんと生き生きしていることか。彼らは「ビクトリア時代の火星人」なので、蒸気機関で作業をしており、シュッシュッという音が聞こえる。また、イギリス海軍艦艇と交戦したときには、足に直撃弾を受けて海中に崩れ落ちる(これに比べて、ジョージ・パルが1953年に映画化したハリウッドの火星人は、原爆にもびくともしない。その非現実さは、中学生だった私をさえ興ざめさせるものだった)。

H. G. ウェルズの火星人(正確には、彼らが製作した戦闘機械)は、かくもリアルな存在である。それにもかかわらず、火星人は、「遊び」というものをいっさいしない。私にはそれが不満だった。宇宙空間を克服して地球に飛来できる知性を持ちながら、ひたすら人間を殺戮するだけで、遊ぶことにいささかの関心も示さない。これは、じつに不自然な設定だ。

この連載でもしばらく前に書いたことがあるのだが、私は長いあいだそう考えていた。レムの論評を読んで、彼も同じことを言っていると思ったのである。

もっとも、レムは、誤解を招きかねない表現をしている。火星人が人間を研究しないのが不満だ、と言うのである。しかし、「人間をいかに効率的に殺戮できるか」を知るための研究はありうるし、それは文化を持たない種族でも行なうことだ。つまり、研究のなかには「手段としての価値へ還元される」ものもあるのだから、研究の存在は文化の存在を意味しない。

ただし、レムが言うのは、そのような実用的研究ではなく、純粋に知的な好奇心からの研究である。彼は、「もし仮に、科学が常に実際に役立つものを発見できそうなことにしか従事しないとなると、大きな進歩は望めない」と正しく指摘している。したがって、彼が言う「研究」は、私が言う「遊び」に含まれる。

カラスは、公園の滑り台で滑って遊ぶことがあるのだという。真偽の程が定かでないこの情報を聞かされたとき、われわれの反応は、次のいずれかである。「カラスがいかに賢くとも、そこまではやるまい」と考えるか、あるいは「カラスは利口だからやりかねない」と考えるかだ。このいずれの反応においても、われわれは、まさしく「遊ぶ能力」によって、カラスの知性を測ろうとしているのである。この基準によれば、『宇宙戦争』の火星人は、カラスにも劣る存在なのだ。

「遊びが知性の尺度だ」というのは、「遊べる余裕を持っている人は、仕事を遂行する能力が高い」という意味ではない。また、「仕事ひと筋の人は人間味がなくておもしろみがない」という意味でもない。あるいは、「仕事ばかりしていると疲れるから、たまには気晴らしが必要」とか、「遊べば疲れが取れて仕事の能率が上がる」という意味でもない。そしてまた、「遊びで興味の範囲が広がれば、新しい発見をする可能性が広まる」と言っているのでもない。

ここで言う「遊び」とは、「生存のための合理的な目的に寄与することがないもの」である。それは、自己目的な行為であり、定義によってムダなものだ(なお、この定義によれば、日本のビジネスマンがやっているゴルフは、「遊び」ではなく仕事の一部である)。

そして、知性は本来的に、無目的な行為を求めるのである。したがって、遊びは、知性が存在することの証拠と見なされるのである。

言い換えれば、遊びは知性の代理変数(プロキシイ)なのだ。因果関係によってそう解釈されるのではなく、単なる相関関係によってそう見なされるのである。

したがって、ここで使っている「知性」という言葉は、正確には「知的な(潜在的)能力」と言うべきだろう。

われわれが政治的リーダーに求めるもの

さて、「遊び」と冒頭で述べた知事選とは、どう関係しているのだろうか。今回の首長選は「マニフェスト」選挙だと言われた。確かに、マニフェストは重要だ。しかし、どれほどの人がマニフェストによって投票したのだろうか。私は大いに疑問に思う。

われわれが政治的リーダーに求めるものは、政策の内容やその実行能力だけではない。ましてや、実行されるかどうかわからない政策公約ではない。われわれが求めるものは、以上で述べた「遊び」の能力と大いに関係しているのである。

サッチャーが20世紀を代表する政治家の1人であることに賛成する人は多いと思うが、その理由は、彼女が規制緩和や国営企業の民営化を行ない、労働組合を対決したことだけではない(それらが重要であることは間違いないが)。

サミットで政治理念についてのフリートーキングがあったとき、延々と話し続けた能力(彼女はさぞや得意満面であったに違いない)、フランス革命200年式典において、フランス人に「革命ならイギリスが先輩だ」と平然と述べた自信、記者団から政権維持期間のあまりの長さを批判されたとき、「あなたはミッテランのことを言っているのか」とかわした機転。そうしたものを、政治家としての高い能力の代理変数と判断するからである。

私は、「石原氏が遊ぶ能力を持っていて、浅野氏が持っていない」と言っているのではない。私が述べたいのは、「東京の有権者がそれを求めた」ということである。首都の首長は、他の自治体の首長や国会議員とは異なり、こうした意味での象徴性が強く求められているのである。

言うまでもないことだが、それは日本の首相に対しても求められる条件だ。日本人がどの程度それを強く望んでいるかは、来る参院選で示されるだろう。

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都知事選での大差と『宇宙戦争』の火星人” への1件のコメント

  1.  都知事選は個人への投票なので、知性の代理変数たる遊びを有権者が望んでいたかどうかが問題となった可能性はある。ところが、来る参議院選挙は政党間の勝負であるから、どの政党に遊びを感じたかが問われるといえる。総理大臣は全然関与しないとは言わないが低い関与率であろう。小泉前首相のように選挙の争点を自分で設定して議会を解散するならば総理に遊びを求めた結果選挙の勝負がついたと言えなくもない。
     しかし、次回7月の選挙では、安部首相は改憲、教育改革、と争点を小泉流に設定しようとしたが、不徳のいたすところで「年金選挙」になってしまうようだ。したがって、次の参議院選挙結果が野口先生の主張される結果には意味づけられないと思います。それと、衆議院・参議院選挙は知性・遊びより利害関係によって政党を選択する人が大部分であり、そのうえ遊びが分かって投票しそうな無党派層は選挙に行かないとなっている。よってなおさら選挙結果は知性・遊びとは無関係となりそうである。

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