変革と教育投資こそ日本を再活性化する

講演に出かけたりインタビューを受けたりすると、「元気の出る話をしてほしい」と言われる。私としても、そういう話をしたいのはやまやまだ。そこで、「新しいことを始めるには、いまが絶好のチャンス」と言うのだが、これが「元気の出る話」だと受け取られることは少ない。多くの人は、きょとんとしている。

「元気の出る話」として期待されているのは、こうしたことではないようだ。多くの人は、「まもなく株価が上がる。円安になって輸出産業の利益が増える。物価や地価が上がる」というようなことを期待している。つまり、人びとが求めているのは、「なにかいいものが空から降ってこないか」ということなのである。

しかし、見渡しても、そうしたものが降ってくる気配はない。それどころか、どこもかしこも、元気のでない話ばかりだ。ピーク時の8割に落ち込んだ経済、過剰な生産設備、失業、就職難、企業利益の激減、税収減少と国債の大量発行等々。「日本経済はお先真っ暗」としか言いようがない。

現在の日本経済は、モルヒネでなんとか命をつないでいる瀕死の病人だ。そんな病人に向かって「あなたは元気だ」と言えるはずはない。むしろ、「モルヒネをいつまでも打ち続けていて、大丈夫か?」と言うべきだ。なにより恐ろしいのは、モルヒネが体力を疲弊させていることだ。自動車や家電の購入支援は、需要の先取り以外の何物でもない。モルヒネが終わったときにどうなるか? 想像するだけで恐ろしい。

しかし、「お先真っ暗」というのは、「これまでの経済構造を維持すれば」と限定した場合のことである。経済構造を変えれば、話はまったく別のものになる。そして、条件が変わったときに経済構造を変える必要があるのは、当然のことだ。世界が変わったのに同じことを続けていて、経済が活性化するはずがない。

悲観論と楽観論という区別がなされる。しかし、問題は、何に対してか?だ。現在の日本に居座っている経済構造に対しては悲観論しか言えないが、日本人の潜在能力に対しては、期待し、楽観することができる。

第二次大戦後、多くの新しいものが日本に生まれた。しかし、年が立つにつれて、新しいものが生まれなくなった。そして、日本社会は固定化してしまった。ベルリンの壁が崩壊してから20年がたつ。その間に、世界は大きく変化した。しかし、日本は変わらなかった。日本は、新しいものを生み出さず、過去にしがみついたために、衰退したのだ。

デフレは脱却するのでなく利用すべきもの

政府は先頃デフレ宣言を出した。デフレから脱却しないと展望が開けないと、多くの人が言う。

しかし、価格は一様に下がっているのではない。下がったのは、まずエネルギー関連である。これは、原油価格の下落に起因する。そして、耐久消費財が下がった。特に、テレビ、パソコンなどは著しく下がった。その半面で、サービスの価格はほとんど不変である。

消費者の立場から見れば、エネルギー価格の下落も耐久消費財価格の下落も、望ましいことだ。原油価格の低下は、産油国への所得移転が減少し、日本人がそれだけ豊かになることを意味するのだから、望ましくないはずがない(デフレ脱却論者は、原油価格がさらに高くなり、日本人の所得が産油国に吸い取られるのを望ましいと思っているのであろうか?)。

パソコンの価格は半分になった。しかし、これは、単なるパソコンの価格破壊ではない。クラウドコンピューティングの普及によってコンピュータの使い方が変わってきたため、従来のように高性能の機械を手元に置いておく必要がなくなったからだ。

価格の大きな変化は、当然のことながら、経済活動の変化を要求する。供給者の立場から言えば、利益が上がらないパソコン生産をやめて、別の事業にシフトすべきだ。IBMはノートパソコンの生産を中国のメーカー、レノボに売却し、自らはソフト中心のビジネスモデルをさらに推し進めた。その結果、経済危機の中でも高い収益率を持続している。

また、クラウドコンピューティングで記憶装置を手元にもっている必要がなくなったために、ハードディスクも利益が上がらないものになってしまった。IBMからハードディスク事業を買った日立製作所が低収益に悩んでいるのは、当然である。

「現在の日本経済では需給ギャップが拡大しているからこれを埋めるべし」との議論がある。しかし、余っているのは、古い経済活動の生産能力である。それを温存するために需要を増やしても、意味がない。必要なのは、古いタイプの生産能力を削減し、新しいタイプの生産能力に変えることである。

相対価格の変化は、長期を考えればもっと大きい。これだけ大きな変化に対応しないで古い産業構造に固執した日本経済が衰退するのは、当然のことだ。

金融資産でなく人的資本に投資する

「新しいことを始めるのに絶好のチャンスだ」と最初に述べた。そう考える理由はいくつかある。特に重要なのは、次の2つだ。

第1は、大企業の力が弱くなったことである。これまでの日本では、新しいことを始めようとしても、大企業の存在が邪魔になることが多かった。周辺業務を含めて、すべての業務を大企業とその系列会社で独占していたからである。したがって、シリコンバレーにおけるようなベンチャー企業が誕生し、成長する余地が少なかった。しかし、その条件が変化した。

第2は、価格体系が変化したことである。コンピュータ利用の価格が低下したので、従来は人手で行なっていた業務をコンピュータに置き換えることによって省力化を進め、収益を高めることができる。あるいは、これまでは不可能であったことをすることもできる。以上2つの条件は、小企業または個人による企業の条件が整ったことを意味する。

ただし、起業すれば失敗することもある。新しいものへの挑戦は、常にリスクを伴う(なお、起業しないことが安全であるわけでは決してない。現在の日本では、これまでのことを継続するのが、最大のリスクになっている)。

リスクに関して日本で言われたのは、金融投資に関して「貯蓄から投資へ」の転換が必要ということだ。つまり、定期預金のような安全な資産でなく、株式や投資信託に投資すべしというものだ。これがいまの日本でいかに無責任なアドバイスであるかは、あらためて言うまでもないだろう。重要なのは、金融投資でリスクを取ることでなく、事業でリスクを取ることだ。

新しい専門分野に挑戦できるような年齢であれば、就職難の時代には、自分で事業を起こせばよいのだ。そうしないで、なぜ人に頼ろうとするのだろうか。他力本願からの脱却こそ重要である。

新しい経済活動を展開するには、ファイナンスの知識も必要だし、グローバルに活躍できる能力も必要だ。これは、日本の従来の教育システムで十分に教えてこなかった類いのものである。日本でも、高度な専門家育成のために専門職大学院がつくられているが、政策面における人的資本の軽視は、はなはだしい。自民党の時代にも、教育が政策の前面に出ることはなかった。民主党政権に変わっても、残念ながら、このことに変化はない。

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