利上げ見送りで賃金はさらに下降

日本銀行は、先般の政策委員会で利上げを見送った。賃金、消費などの経済指標が弱含みであり、情勢の推移をさらに見ることが必要なためであるという。

この判断は適切でないことを、以下に述べたい。主要な論点は、この判断で経済の構造変化が無視されていることだ。それを考慮すると、利上げ見送りによって賃金下降圧力がさらに強まることを以下に述べる。

さて、経済がさまざまな部門から成り立っていることは言うまでもない。前回(2月3日号)は、家計と企業の利害対立を問題とした。以下では、産業構造を問題とする。

現在の日本で問題となっているのは、企業収益の増加が顕著であるにもかかわらず、賃金が伸び悩んでいることだ。この問題を考えるために、生産活動における資本・労働比率に注目したい。これは、2つの生産要素である資本(機会・工場など)と労働が、生産活動においてどのような比率で用いられているかを示すものである。そして、これは、賃金と資本収益率という要素価格と密接にかかわっている。

資本・労働費率は、まず産業によって異なる。重厚長大産業・装置産業では、この比率が高い(資本集約的である)。鉄鋼業や化学工業はその代表だ。自動車産業もそうだと考えてよいだろう。これに対して、軽工業、IT産業、金融業、サービス産業では資本・労働費率が低い(労働集約的)。

ところで、生産活動において、労働の投入を減らしても資本の投入を増やせば、同一の生産量を実現できる(このことを「資本と労働は代替的」という)。

したがって、資本・労働比率は、要素価格の比率によっても変わる。資本収益率が不偏のときに賃金が下落すれば、労働をより多く用いるようになり、資本・労働費率は低下する。前述した産業による資本・労働費率の違いは、要素価格比率をある値に固定した場合のものである。

現実の世界には、資本・労働比率が異なる多数の産業がある。しかし、以下では、資本・労働比率が高い産業(鉄鋼業)と低い産業(IT産業)の2つだけがあるものと単純化しよう。

資本集約財の価格上昇で賃金が低下する原理

さて、鉄鋼価格(資本集約的な産業の生産物の価格)が上昇したものとする。すると、経済全体の生産活動は鉄鋼業にシフトする(ここでは、こうした変化を所与として考える。近年の世界経済で生じている顕著な現象は、中国の工業化や建設ブームによる資材価格の高騰だ。それによって、実際に日本の鉄鋼業の生産が拡大している)。

ところで、経済全体の資本と労働の存在量は一定であるとすれば、労働集約産業から資本集約産業へのシフトは、両産業において資本・労働比率が低下することによって実現される。

これは、資本収益率に対して賃金が低下することによって実現する。つまり、「資本集約産業の生産物の価格が上昇すれば、賃金が低下する」という結論が得られたことになる。

以上の説明は、若干わかりにくいかもしれない。特に、「資本集約財の価格が上昇したときに賃金が低下する」という結論は、一見すると逆であるように思われるかもしれない。

ただし、このモデル(「2財、2要素モデル」)は、ミクロ経済学の標準的な分析道具だ。そして、結論も、よく考えれば自然もなのである。つまり、価格が上昇した生産物(今の例では鉄鋼)の生産に集約的に用いられている生産要素(資本)の価格が上昇し、そうでない生産要素(労働)の価格が下落するのである(この結論は、「ストルパー=サミュエルソンの定理」と呼ばれている)。

したがって、モデルも結論も、ごく標準的なものだ。問題は、モデルを現実に適用する際に、どのような単純化を行なうかである。現実の経済は複雑であるから、このような簡単なモデルで分析するためには、何を本質的な問題と考えるかが重要なのである。

とりわけ、何を外生的に与え(この例では、生産物価格の変化を所与とした)、何がモデルで内生的に決まると考えるか(この例では、資本・労働比率と要素価格比率が内生的に決まるとした)が重要な点だ。

前述したように、現在生じている経済構造の変化を考える際には、このモデルは適切な一次近似になると考えられる。さらに進んで、金利と賃金の関係を分析するにも用いうるだろう。先のモデルを援用すれば、次のような結論になる。

低金利状態を続ければ、大量の設備を必要とする資本集約産業に有利になるため、その生産がさらに拡大する。それを実現するには、賃金がさらに低下する必要がある。したがって、利上げ見送りは、現在問題とされている賃金の伸び悩み現象をさらに悪化させる。

マクロ経済学の枠組みを離れた発想の転換が必要

通常のマクロ経済モデルでは、財は1つしかないと仮定している。つまり、資本集約財と労働集約財の区別はない。したがって、産業構造の変化は捨象されている。そうした単純化が適切なも場合も、もちろんある。特に、経済構造が不変の場合の短期的な経済活動を扱うには、適切だ。

しかし、現在日本で問題となっているのは、そうしたことではない。企業収益(資本収益率と考えてよい)が著しく回復する半面で、賃金が上がらないという問題だ。これを説明するために、通常のマクロ経済学のフレームワークは適切なものではない。

マクロ経済学においても、賃金と利子率という変数は登場する。しかし、それらは生産活動における要素所得という位置づけを与えられていない。利子率は投資に影響する変数と考えられており、賃金は家計所得を通じて消費支出に影響すると考えられているだけだ。このため、これらが産業構造に影響するとは考えられていないし、産業構造の変化がそれらに影響するとも考えられていない。

そのようなモデルが、現在の日本経済の状況を分析するのに適切なものとは思えない。実際、利上げ見送りについても、金利と賃金がどのように関連しているかの納得的な説明はなかった。「金利を上げると景気が悪くなる」といった程度の、きわめてあいまいな説明しか見当たらない。現在の日本が直面している経済的問題を適切に分析するためには、用いるモデルについての発想の転換が必要だ。

なお、ここで述べたモデルは、現在の世界で生じている構造変化を理解するにも役立つ。

アメリカ、イギリス、そして欧州の小国(アイルランドなど)は、製造業ではなくIT関連の高度なサービス産業や金融業にシフトすることによって目覚ましい発展を遂げている。

これらの産業は、資本・労働比率が低い産業(労働集約的な産業)である。生産活動がそのようにシフトするには、賃金が上昇する必要がある。

これらの国の1人当たりGDPの目覚ましい成長は、そのようなコンテクストで理解することができるだろう。イギリスでは、東欧、中欧からの移民を受け入れつつも、そのような現象が生じていることに注意が必要だ。

これらの国では、重厚長大産業がすでに淘汰されてしまっているか、もともとなかったため、近年の素材価格高騰に対しても、素材産業の拡大という現象は生じていない。それが賃金にとっては有利な状況をもたらしているわけだ。

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