出発の地に達しその地を初めて知る

ベトナム戦争当時のアメリカの国防長官ロバート・マクナマラが、7月6日に93歳で亡くなった。

日本では、デイヴィッド・ハルバースタムのThe Best and the Brightest(邦題『ベスト・アンド・ブライテスト』)による否定的評価が一般的だ。

「政治的自由を欲求する国民の問題を理解せず、その深さを知ることが最も不得手な人間」「自分に都合がよい統計だけをがぶのみし、すべてを数字で割り切ろうとする超合理主義者」「人間味がなく、冷酷」……等々。日本で知識人と呼ばれる人の多くは、この評価を全面的に受け入れている。

マクナマラは1995年に回想録を書いた理由を、「われわれに向けられる冷笑や軽蔑を見て胸が悪くなったから」と述べているが、ハルバースタムを読んでいると、私も胸が悪くなる。

ところで、『ニューヨークタイムズ』のオンライン版は、7月6日、きわめて長い追悼文を掲載した。それを読んで、意外な気持ちにとらわれた。タイトルこそ「無益な戦争の建設者」となってはいるが、中身はベトナム戦争についてマクナマラが途中から批判的になったことや、ジョンソン大統領に戦闘停止を提案したことなどを紹介している。68年に世界銀行に移ってから、貧困の撲滅に尽力したことも詳しく紹介している。

ニューヨークタイムズは、マクナマラに対してきわめて批判的だった(ハルバースタムも同紙の記者)。回顧録に対しては、激烈で仮借のない批判キャンペーンを繰り広げた(当時の新聞論評の要約が、97年に共同通信社から刊行された『マクナマラ回顧録』邦訳の付録にある)。論調の変化は、故人に対する追悼文だからか? それとも、15年近くの歳月は、激烈さを和らげるものなのか?

マクナマラは、16年の生まれで、40年にハーバードビジネススクールの助教授になった。第2次世界大戦中は、統計の手法で軍事作戦を分析する仕事に従事した。45年、彼と妻がポリオにかかり、大学の給与では治療費を払えなかったので、ウィズキッズ(the whiz kids:神童たち)と呼ばれたスタッフを引き連れて、フォード社に移った。統計学の手法を使って赤字を立て直し、60年、44歳の若さでフォード社長に就任した。これは、国防長官就任の10カ月前のことだった。

ケネディ大統領は最初、ロバート・ロベット元国防長官に閣僚就任を要請したのだが、ロベットは辞退し、戦時中の部下だったマクナマラを推薦した。「国防長官に必要な訓練を受けていないので、資格がない」とのマクナマラの返答に対して、43歳の次期大統領は、「大統領の資格を取るための学校というのもないのだよ」と言ったそうである。

核抑止理論とPPBSによる国防省予算改革

ベトナム戦争とともに彼が直面した課題は、核戦争の抑止である。マクナマラの抑止理論の中核は、「確証破壊能力」(assured destruction capability)と呼ばれる概念だ。「米ソ両国とも、第2撃によって相手国に耐えがたい損害を与えうる能力を持つことを互いに認識し、それによって第1撃を思いとどまらせる」というものだ。これは、ゲーム理論が現実の政策で使われた唯一の例と言えるだろう。私が博士論文でゲーム理論を選んだのは、この考えに接したのがきっかけかもしれない。批判者はこれを「悪魔の理論」だと言うのだが、人類が核戦争を回避できたのは、この理論が現実に機能したからだと、私は思う。しかし、世の中ではそうは受け取られておらず、軍拡競争を促進したと誤解されている。

レーガン時代に、マクナマラはABM(弾道弾迎撃ミサイル)の配備に反対した。素朴な平和主義からではなく、また巨額の予算を使うからというだけの理由でもなく、ABMが配備されると確証破壊能力による抑止の均衡が壊れるという理由によるのだと思う。しかし、このロジックも、世の中では理解されていない。

マクナマラが行なったもう1つの仕事は、膨大な国防予算の改革と合理化だ。スタッフを国防総省に集め、PPBSと呼ばれる仕組みを導入した。これは、費用対効果分析を予算編成に適用しようというものだ。

私はその当時、大蔵省から建設省に出向していて、日本の予算にもPPBSを導入したいと考え、建設省から予算要求をした。説明のために主計局に出かけたことをよく覚えている(そのときの建設担当主査は、後に大蔵次官となった西垣昭氏だった)。この要求は認められ、建設省に「システム分析室」が作られた。大蔵省や経済企画庁経済研究所にも同じ組織ができた。大学に移って後、後者の室長を3年ほど務めた。ただし、現実の予算編成に影響を与えることは、残念ながらできなかった。

それから何十年もして、スタンフォード大学で、当時の予算スタッフの1人、ヘンリー・ローウェンと同僚になった。彼がA・ウォールステッターなどと書いたランド研究所の報告書『戦略空軍基地の選択と使用』を、私は当時熟読したのである。

ベトナム戦争はドミノ理論で正当化できるか

ベトナム戦争に関する最大の論点は、「ベトナムが共産化すれば、アジア全域が共産化する」という「ドミノ理論」の評価だ。これを援用してベトナム戦争を正当化する議論は、戦後も行なわれたのである。しかし、マクナマラは、回顧録で、その考えは誤りだったと、率直に認めている。「われわれは間違っていた。ひどく間違っていた」。

自分がかつて犯した誤りをこのように認めることは、並大抵のことではないと思う。なにしろ、6万人近いアメリカの若者の死は、彼の責任だとされているのだから(ただし、回顧録よりずっと前に、彼は『ペンタゴン・ペーパーズ』の中で自分の誤りを告白している。これは、ダニエル・エルスバークが横流しし、ニューヨークタイムズがスクープとして掲載した国防総省の機密文書だ)。

ちなみにハルバースタムは、64年に書いた本の中で、南ベトナムを捨てることに反対している(95年4月15日の『ワシントンポスト』の論評による指摘)。アメリカがベトナム介入を拡大するとき、世論やジャーナリストの多くは、それに反対したのではなく、支持したのである。

私は、じつはマクナマラと話したことがある。ある国際会議で同席したとき、勇気を奮って話しかけてみた。「若いときにあなたの予算改革を知り、日本にも導入したいと思った。そのとき以来、あなたを尊敬している」と伝えたかったのだ。ごく短い時間で、会話というよりは私が一方的に話しただけだが、彼は私の話を聞いてくれた。そのことは、私の貴重な思い出になっている。

マクナマラは、回顧録の序文でT・S・エリオットの詩『リトル・ギディング』(Little Gidding)を、そして最終章でキプリングの詩『宮殿』を引用している。前者は、次のようなものだ(訳は野口。な全文は、http://www.ubriaco.com/fq.html)。

We shall not cease from exploration
And the end of all our exploring
Will be to arrive where we started
And know the place for the first time.

われわれは探求をやめぬ
あらゆる探求の終点は
出発の地に達し、その地を初めて知ることだ

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