世界を魅了したマクシーモワ

ロシア、ボリショイ・バレエのトップバレリーナだったエカテリーナ・マクシーモワが、今年の4月28日に亡くなった。ボリショイ劇場のウェブサイトにある説明によると、数日前まで元気だったそうで、誰にとっても意外な急死だった。

昨年の2月にはベスメルトノワが亡くなっている。ボリショイは、ソ連時代のスター2人を失ったことになる。ニューヨークタイムズとデイリーテレグラフのウェブ版は、長い追悼文を掲げている。

このときマクシーモアについて書きたいと思ったのだが、まだ現実経済の急降下が続いていたため、バレエは後回しにせざるをえなかった。経済情勢が少し落ち着いたので、このテーマについて書くことが許されると思う。

彼女は、「バレエにおけるオードリー・ヘップバーン」と呼ばれることがある。「登場するだけで観客を魅了してしまう」という意味だろう。ヘップバーンとの違いは、登場した後の演技で、観客の魂を奪い取ってしまうことだ。「観客に媚を売りすぎる」と批判されることもあったが、暗く憂鬱な生活を強いられていた冷戦時代のソ連国民にとって、彼女が放つ光は(マイヤ・プリセツカヤの光と並んで)、絶対に必要なものだったに違いない。

ベスメルトノワは、高貴で近寄りがたい。その表情は、常に能面のようだ。それと対照的に、マクシーモワの表情はじつに豊かだ(実際、最初は俳優志望だったのだそうだ)。

「くるみ割り人形」の最後は、マーシャ(西欧ではクララ)が夢から覚めて、「お菓子の国は現実でなかった」と悟る場面だが、ここはどんなバレリーナが演じても、つまらなくなってしまう(バリエ的な動きがないからである)。しかし、マクシーモワは、このシークエンスを全編のクライマックスにしている。わずか数秒間の微妙な表情の変化で、このお伽噺のエッセンスを余すところなく表現しているのだ。

これを見ていると、「バレエに言葉がない」という理解は間違いであることが、よくわかる。音声を発していないのは事実だが、彼女のようなバレリーナは、じつに雄弁に語っているのだ。表情がバレエにおいて正式な表現手段として認められているのかどうか、私は知らないが、たぶん「否」だろう。顔の表情は、客席からはほとんど見えないからだ。マクシーモワの演技は、DVD時代になって初めて意味を持ったものだ。

奇跡のペア カーチャとボロージャ

マクシーモワは、夫君ウラジミール・ワシーリエフとともに、ソ連のバレエを代表するスターであった。彼らは、「奇跡のペア」と呼ばれた。まさにそのとおりで、2人は生涯を通じて互いを高め合ってきた。

「カーチャとボロージャ」というフランス映画がある(1989年:「カーチャ」はエカテリーナの、「ボロージャ」はウラジミールの、それぞれ愛称)。マクシーモワは、「マダム・ノー」と言われたほどのインタビュー嫌いで、自らについて語ろうとしなかったので、舞台の外での彼女の姿が見られるこの映画は貴重だ。

これを見ると、2人が互いに尊敬し合っていることがよくわかる。彼らは、39年と40年の生まれ。モスクワ・バレエ学校で、10歳と9歳のときからの同級生だった。「ボリショイの栄光」という映画(95年)には、2人が53年に「くるみ割り人形」の「あしぶえの踊り」を踊る映像が収録されている。

ワシーリエフは、少年の頃にはマクシーモワに劣等感を抱いていたようだ。「私はカーチャに夢中になったが、彼女は私のことなど眼中になかった」。そして、マクシーモワの方が早く世間に認められてしまった(17歳のとき、第1回全国バレエ・コンクールで「くるみ割り人形」の「シュガープラム・フェアリー」を踊って優勝し、一躍スターになった)。それだけではない。彼は次のようにも言っている。「カーチャは裕福なブルジョア階級の生まれだった。私は労働者の子だ。バレエがなければ、われわれは一緒になることはなかったろう」。

しかし、これはじつに不思議なコメントである。まず第一に、39年のソ連にブルジョア階級が残っていたのか? 第二に、仮に残っていたとしても、ソ連では労働者こそが最高の階級ではないのか? 豊かなブルジョア階級に生まれたのが恥ずべきことで、労働者の子に生まれたのは誇るべきことではないのか? だから、「革命がなければわれわれは一緒になることはなかったろう。革命万歳!」と言うべきではないのか? ワシーリエフの言葉は、ソ連社会における価値観が実際にはどのようなものであったのかを、図らずも明らかにしてしまっている。

ボリショイの内紛とソ連の崩壊

80年代のボリショイ・バレエにおいて、内紛があった。それは、芸術監督グリゴロービッチのグループと、ワシーリエフのグループの衝突だ。ワシーリエフ=マクシーモワとプリセツカヤの非難は、グリゴロービッチが古典作品と彼自身の作品に終始し、新しい演目をなにも導入しないということだ。

「スパルタカス」や「石の花」などの名作バレエを生んだ天才グリゴロービッチは、硬直化し、保守化した。スターリンのごとき彼の圧政の下で、ボリショイは窒息した。

この種の権力闘争はどんな組織にもあるものだろうが、ソ連の場合には、それが国家中枢の権力と密接に関連しているので、厄介だ。ムハメドフをはじめとする多くの有能なダンサーがボリショイを去った。そして、ワシーリエフとマクシーモワも、88年にボリショイを去った。

しかしその後、80年代の末に、国家体制の大変動が起きた。91年12月にソ連が崩壊し、ロシア共和国が復活した。そしてなによりも、グリゴロービッチの圧政にあえぐボリショイの実力は、明らかに低下した。95年に、今度はワシーリエフがグリゴロービッチをボリショイから追い出すことになる。そのときに、グリゴロービッチ夫人であるベスメルトノワもボリショイを去った。

この闘争には、多くの人びとが巻き込まれた。マクシーモワに影響がなかったはずはない。「この対立があったために、マクシーモワは白鳥の湖を踊ることがなかった」とも言われる。「ボリショイの200年」という記録映画があるのだが、稽古場でマクシーモワは孤立しているように見える。

ベスメルトノワもマクシーモワも、バレリーナとしての活動は、政治体制やイデオロギーを明らかに超越している。彼女たちは、共産主義国家でも自由主義国家でも、間違いなく高く評価される存在だ。しかし、「マクシーモワをとりまく世界が違っていたら、もっと大きな可能性が開けたのではないか」という想像を、消し去ることができない。

人間の価値を数量で測れないことは言うまでもないが、「その人の死を悼む人の数」は、重要な指標だ。これは、ジョン・スタインベックが『エデンの東』第4部のプロローグで述べていることである。「やっと彼(彼女)も死んでくれたか」と言われる人も多いが、その場合には、評価はマイナスだ。「この人は、なぜかくも早く、われわれの世界から去ってしまったのか。これは人類にとっての大きな損失だ」と言える人は、めったにいない。マクシーモワは、そうした人の1人だった。

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世界を魅了したマクシーモワ” への1件のコメント

  1. とても楽しく且お勉強になりました!80年代のボリショイの内紛のことは覚えていますが、ロシアバレーのなんとも表現できない神秘性を愛しています。

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