コモディティ型から日本は脱却できるか

IBMがノートパソコンの生産を中国レノボ社に売却したとき、日本IBMのある幹部は、次のように説明してくれた。

「コモディティになった製品を作るのはやめた」

「コモディティ」(commodity)は、もともとは「商品」という意味だが、最近ではもっと限定化された意味で使われることが多い。それは、「生産に格別特殊な技術が必要とされないため、差別化特性がなく、価格が主たる判断基準になる製品」(commonと同系統の言葉であるために、こう使われるのかもしれない。「味付けされていない」という意味で、「バニラ」と呼ぶこともある)。

「コモディティ化した製品は誰でも作れる。そのため、供給が過剰になる。だから、その生産を続けても、利益は上がらない。IBMは優秀な社員を抱えているので、そうした事業からは撤退する」というわけだ。この判断は、正しいと思う。

これに比べると、日立製作所がIBMのハードディスク製造部門や社債情報機器メーカーのクラリオンを買収したのは、信じられないことだ。日立の業績がふるわないのは、技術力の問題ではなく、経営の問題だと考えざるをえない。ソニーも同様の問題を抱えている。これらの企業の優秀な社員は、コモディティの生産に使われているのだ。

日本が得意なのはコモディティの大量生産

「日本経済再生のためにイノベーションが必要」と言われる。技術の必要性は否定できないが、重要なのは、コモディティの生産から脱却することであろう。

かつてブランド力を持っていた製品がコモディティ化することも多い。「そうした生産は低賃金国に移る」というのは、これまでもあった傾向だが、1990年代以降加速した。前回述べたように、資本主義経済圏が利用できる労働力が、急激に増加したからである。「利益を上げるためには、皆と違うものを供給する必要がある」とは、経済学の基本的な命題である。ファイナンス理論では、これを「ベータ」という指標で表す。ベータが正の資産は、収益が市場平均と同じ方向に動く。このような資産の収益率は、高くならなければならない(つまり、価格の評価が低くなる)。これは、コモディティと同じようなものである。それに対して、ベータが負である資産の収益は市場平均と逆方向に動くので、収益率が低くともよい(つまり、価格が高く評価される)。これは、ファイナンス理論の重要なポイントだ。

ところで、製造業のすべてが大量生産に従事しているわけではない。付加価値の高い個別少量生産の製品はコモディティにはならず、その生産に不可欠な熟練工の賃金は下がらない。

「日本が得意なものはものづくり」とよく言われる。しかし、同じ「ものづくり」でも、「コモディティの大量生産」と「付加価値の高い少量生産」は区別しなければならない。日本が強いのは、自動車のような大量生産の製造業である。航空機や医薬品のようなものは、「ものづくり」であっても日本は弱い。ただし、日本にも、中小企業には後者のタイプの製造業がある。

コモディティか否かは、金融業でも重要な区別だ。「預金を集めて住宅ローンの貸付を行なったり、投資信託の販売を行なう」というのは、コモディティ的業務だ。それに対して、「企業が直面する資金調達需要に対して専門的なアドバイスを与える」というのは、コモディティではない。

日本の金融業は、概してコモディティ的業務しか行なっておらず、後者のタイプの業務に弱い。日本の金融業の利益率が低いのは、このためである。

広告も、万人向けに同一メッセージを流すのはコモディティだが、アマゾンの「お勧め書籍」やグーグルの「検索連動型広告」は、個人ごとに異なるメッセージを送っており、非コモディティ的な広告だ。アマゾンやグーグルが成長しているのは、そのためである。

事務作業では、「誰でもできる作業」がコモディティに当たる。ITの進歩によって、計算作業はコモディティ化してしまった(私は、そろばん、計算尺、手回し計算機のいずれも得意だったので、ITの犠牲者だと感じている)。今重要なのは、与えられた計算を実行することではなく、問題を表計算ソフトで扱えるかたちに定式化することである。

以上は供給側の事情だが、需要側についても、本来は「皆と同じものを求めると、需要が増えるので価格が上昇し、高くつく」というメカニズムが働くはずである。しかし、産業革命以降の生産技術においては、「大量生産すると平均コストが下がる。しかも、流通コストも低くなる。だから、皆と同じものを買うほうが安い」という事態が一般化した。つまり、皆と違うものを求めると、高くつくのだ。

しかし、インターネットがこの事情を変えた。インターネットは、皆と違う特殊な需要を供給者に提供することを可能にした。これが「ロングテール」と言われる現象だ(もっとも、これは、「2割が8割の重要性」という「パレートの法則」を否定するものではない。これが正しいケースは依然として変わらない。たとえば、「自動車の事故の8割は、2割の部品が原因で生じる」という品質管理の法則は依然正しい。また、「教室で2割の学生が質問の8割をする」とは、私が日常的に感じていることだ)。

テレビや教育がつくるコモディティ型人間

さて、以上で述べたことは、メディアや教育の問題に関しても、重要な視点を与える。

テレビはチャネル数が限られているため、誰にも受け入れられるコモディティ的な内容しか流せない。大宅壮一はこの状態を「一億総白痴化」と評し、これは流行語となった。しかも、テレビは無料であるために他のメディアに対して圧倒的な優位性を持つ。

ただし、これは、テレビの宿命というより、地上波ではごく少数のチャネルしか確保できない結果である。したがって、ケーブルテレビへの移行が切に望まれる(それにもかかわらず、日本では「地上波ディジタル放送」が施行されている)。これに対して、雑誌は、少数の読者を相手にできる。新聞も全国画一化している日本で、私は雑誌メディアに多くを期待したい。

日本の教育は「詰め込み教育」であり、「創造性涵養教育」に転換する必要があると言われる。しかし、この意見は正しくないと思う。問題は、「皆と同じことを効率的にできる人間」、つまり、コモディティ生産に適した画一的人材をつくっていることだ(それに、創造教育は難しい。創造的能力がない教師に創造教育ができるはずがない。創造教育はゆとり教育になり、そして教育放棄につながる)。

私の考えで、必要なのは「好きなことだけを勉強してもそれが評価される教育体制」だ。小学校は別としても、高等学校になったら、画一的な学習指導要領など必要あるまい(もっとも、英語・数学・国語は必須である。ファイナンスの教育で困るのは、初等数学もできない学生が大学院に入ってくることだ)。

世界史の学習が不足と大騒ぎする前に、そもそも世界史がどうしても必要かどうかを議論すべきだろう(いったん指導要領で必修とされてしまえば、それに従うべきことは言うまでもないが)。先般の世界史未習事件でそうした意見が聞かれなかったのは、まことに不思議なことだ。

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