まるきり見当違いな「貯蓄から投資へ」

資産運用に関する政府の基本メッセージは、「貯蓄から投資へ」だそうである。簡単に言えば、「銀行預金はやめにして、株式や投資信託を買いなさい」ということだ。

これを聞くと、私は40年ほど前に流行した「銀行よ、さようなら。証券よ、こんにちは」を思い出してしまう。これは政府が言ったことではなく証券会社のコマーシャルだが、言っていることは同じだ。

このときの結末がどうなったか。あらためて説明するまでもないが、念のために述べておこう。

1950年代の末頃から、日本経済の著しい成長を反映して株価上昇が顕著になり、投資信託が急成長した。しかし、これは株価が上昇し続けないと維持できない仕組みだった。日本経済は高度成長を継続中だったのだが、63年のケネディ米大統領暗殺をきっかけにして、株価が下落。このため投資信託の元本割れが続出し、山一證券は取り付け的な危機に直面した。この救済のため、異例の日銀特融が発動された。その後景気も回復したので、証券危機は回避された。

危機対処に使われたのは、日銀特融だけではなかった。銀行主導で「日本共同証券」が設立され、市場から大量の株式を購入して株価を支えた。つまり、「銀行よ、さようなら」とは言ったものの、証券会社は銀行の支援によって救済されたわけだ。

今振り返れば、証券投資が健全に進むための大前提は市場の整備だったことが痛感される。特に、公社債の流通市場がない状態で公社債投信がふくらみ過ぎたのが問題だった。基礎的条件がととなわない状況で「投資」だけがあおられたために、一時的な株価の下落によっても大混乱が起きたのである。

では、その時代と比べて、現在の証券市場は改善されたか? つまり、「貯蓄から投資へ」と国民に勧めてもよいだけの基本条件は整備されただろうか?

株価が正しくないのは日銀総裁も認めたこと

確かに、形式的には証券取引法は金融商品取引法に改正されたし、会社法も改正された。企業の内部統制も意識されるようになった。しかし、市場が改善されたとは、とても思えない。その象徴とも言えるのが、ライブドアと村上ファンドをめぐる事件だ。

ライブドアは、株式を分割するだけで巨額の利益を上げた。「100円を2つに分割すれば50円と50円になる」というのは、ファイナンス理論の最も基本的な命題なのだが、それが日本では成り立たなかったのである。これは、日本の株式市場での価格づけが以下に歪んでいるかを示す。

村上ファンドは、企業価値と株価の乖離に目をつけた。つまり、「株式市場が適切に機能していない」ことを利用したのである(市場が常に正しい価格づけを行なっていれば、このような裁定取引は不可能である)。福井俊彦・日本銀行総裁は、村上世彰氏の行動をサポートした。つまり、「日本の株式市場では正しい価格づけがなされていない」と認めたことになる。

そう認めること自体は、悪いことではない。しかし、中央銀行総裁が認めたのは、驚きだ。そして、それこそが重要である。これは、日銀の内部規定に抵触するかどうかというより、はるかに重要なポイントなのだ。

このように、日本の株式市場のインフラストラクチャーが改善されたとはとうてい思えない。他方で、市場の不安定性は60年代に比べてむしろ増したとも言える。それは、共同証券が購入した株式などを用いて企業と銀行が株式の持ち合いを進めた結果、株式市場での浮動株が減少したからだ。個人株主の比率は、65年の44.8%から90年の23.1%まで低下した。その後、銀行が株式を手放したために持ち合いの解消が進んだが、最近ではまた上昇の傾向が見られる。

このような市場に素人が手を出したら、やけどすることは目に見えている。「貯蓄から投資へ」と責任をもって勧められる状態ではとうていないのだ。

内部統制についてもそうだ。形式だけ整えるという「アリバイづくり」なのかもしれない。また、内部統制は、外部の厳しい目があってこそ機能するものだ。とりわけジャーナリズムに期待されるところが大きい。エンロン事件は、「ウォールストリート・ジャーナル」がエンロンの不正会計疑惑を報じたことで始まった。

これに対して日本では、ライブドアや村上ファンドを「新しい時代の旗手」として持ち上げる報道が多かった。「ライブドアが、格別優れた事業を行なっていないのに企業価値が上昇するのは、いかにもおかしい」とは、ファイナンス理論など持ち出さなくとも、自明なことである。それを検証しなかったのは、ジャーナリズムの怠慢だ。

リスクに挑戦すべきは家計ではなく金融のプロ

「貯蓄から投資へ」というスローガンには、間接金融が支配的な日本の企業金融を直接金融に移行させるという意図があるとされる。この方向づけは、私も賛成である。企業の活性化や収益率の向上は、企業の活動が常時市場によって監視される環境においてこそ実現されるからだ。私も、一時期は直接金融の推進が必要と主張していたことがある。

しかし、ライブドアや村上ファンドの事件を見て、その考えを改めた。直接金融を実現するには、以上で述べた市場のインフラストラクチャー整備が不可欠の条件である。それなくして家計にリスク挑戦を求めるのは、見当違いだ。

それに、家計の立場から言えば、収益性だけでなく安全性こそ重要である。60年代の証券危機を救ったのは、政策というより、日本経済の高度成長である。それにもかかわらず、一時的な株価の下落で大混乱が起こったのだ。現在の日本でそうした成長は、逆立ちしても望めない。株価の上昇は、企業の一時的な業績回復による。したがって、金融資産に比べて実物資産が有利であるわけではない。

こうした状況で政府に求められるのは、投資をあおることではない。そうではなく、国民に安全な資産を提供することだ。特に重要なのは、老後の生活を確実に支えてくれる資産を家計に与えることである。

しかし、現実には、そうはなっていない。年金は、加入者から見れば一種の資産である。というより、老後生活を支える最も重要な資産だ。ところが、将来、本当にその機能を果たしてくれるかどうかは、きわめて不確定だ。

もう1つ重要なのは、「リスク挑戦はプロの仕事」ということだ。普通の家計は、リスクを取るノウハウは持っていない。仮に持っていても、そんなことをしているひまはない。本来の仕事があるからだ。だから、普通の家計が安心できる金融資産を提供することこそ、最も重要な政府の責任なのである。

最後に、もう1点指摘しよう。リスク挑戦は、プロの仕事である。しかし、日本のプロはそれを行なっていない。それは、国際収支にははっきり表れている。

この連載ですでに述べたことだが、アメリカは世界一の債務国であるにもかかわらず、所得収支は黒字である。それは、「安く借りて高く運用している」からだ。「安く貸している」のは、日本の機関投資家である。つまり、本来は金融のプロであるべき機関投資家は、バブル時代の失敗に懲りて、「安全な貯蓄」に凝り固まっている。「貯蓄から投資へ」という言葉は、本来は彼らに向かって投げられるべきものだ。

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