われわれは生活防衛策を真剣に考える必要がある

前回のこの欄で、石油ショック時の政策対応と現在を比較した。そして、1970年代に比べて、現在の日本の政策形成能力が劣化していると述べた。

原稿の校正を終えた時点で、その内容を実証する事態が現実に生じてしまった。福田康夫首相の突然の辞任表明である。

現在の世界は、数十年に一度の大混乱に直面している。しかも、それが収束する兆しは、見えていない。したがって、政策対応はきわめて重要である。そのさなかにあって、日本の最高政策責任者は、任務を放棄してしまったのである。

新聞党の報道を読むと、福田首相は「ねじれ国会」のために思いどおりの政策展開ができないことを悩んでいたのだそうである。そして、民主党との大連立に期待をかけたが、それが失敗したために意欲を失っていたのだそうだ。

こうした考えは、私にはまったく理解できない。そして、「いったい日本は民主主義国なのだろうか?」と深刻な疑問にとらわれてしまう。選挙がある以上、政権党とは異なる政治勢力が参議院で多数を占めるのは当然ありうることだ。「そうなっては政権が担当できない」というのでは、民主主義の基本を否定したことになる。

「大連立で反対者がいなくなれば政策を推進できる」というのも、きわめて奇怪な論理だ。反対する者がいない状態で進められる政策とは、いったいどんなものだろう。旧ソ連のような全体主義独裁国家では、誰も政権の意向に反対しないから、為政者の思いどおりのことができる。しかし、邪魔者をすべて排除するために、想像を絶する粛正と蛮行が陰で行なわれた。

新聞は、このような奇怪な論理を報道はするが、そうした考えが異常だとは思っていないようだ。私のようにごく自然で素朴な疑問を抱く者のほうが、今の日本では異常になってしまった。周囲の状況があまりに奇妙だと、「自分のほうがおかしいのではあるまいか」という思いにとらわれてしまうものだ。今の日本は、全般的にそのような状況になってきた。

日本がこうした状態にあるとき、アメリカでは大統領選挙が進行中である。毎回の大統領選挙を見てつくづく思うのは、「こんな熾烈で長い選挙戦をよく戦い抜けるものだ」ということだ。これだけの選挙戦を勝ち抜いて獲得した政権なら、やたらなことでは投げ出せまい。事実、スキャンダルに満身創痍になった大統領が1人ならずいたが、ぎりぎりまで政権を投げ出さなかった。クリントン前大統領は、前代未聞のスキャンダルのなかで政権を維持し続けた。日本の政権担当者がかくも簡単に政権を投げ出してしまうのは、選出の過程があまりに安易だからではないだろうか?

必須になった70年代ヨーロッパの研究

理由がどうであれ、福田首相が政権を投げ出したことは事実である。今のわれわれには、その原因を探り「日本の政治はいかにあるべきか?」などと悠長に評論している余裕はない。それより先に、そうした事態が何をもたらすかを予測し、それに対応しておかなければならない。政治の危機的な状況がわれわれの生活にもたらしうる災難を、自己努力で最小限に食い止めることは、日本人にとって緊急の課題となった。それは、大地震への備えより現実的な課題だ。

前回述べたように、70年代の世界経済危機の際、ドイツ以外のヨーロッパ諸国は対応を誤り、その後遺症から20年近くの期間抜け出せなかった。ご対応の基本は、為替レートの減価を放置したことである。その結果、海外からのインフレが増幅された国内に輸入され、他方で貿易収支が改善しなかったため、経済は深刻なスタグフレーションに落ち込んだ。こうなった大きな原因の1つは、強い政治的なリーダーが不在だったことである。

今の日本は、このときのヨーロッパ諸国ときわめて似た状態にある。政治だけではなく、社会のあらゆる側面で、著しい劣化が見られる。そのため長年の経済的停滞から抜け出せず、インフレの危機に直面しながら、必要な経済政策(とりわけ金融の引締め)を実行できない。したがって、これからの日本は、70年代、80年代のイギリスやイタリアのような事態に陥ってゆくだろう。

80年代にイタリアを旅行したとき、「特急列車は200分遅れます」とか「この列車の運行はキャンセルされました」というアナウンスを何度も駅で聞いた。私が驚いたのは、人びとがそれを平然と聞き流していたことだ。「なんという国だろう。日本だったら大騒ぎになるところだ」と呆れたことをよく覚えている。

今の日本は、それと同じ状態になってしまった。駅に着くと、「人身事故のため電車の運行は休止しています。復旧の見込みは立っていません」というアナウンスが流れている。そして、人びとは格別あわてもせず、諦めの表情だ。数十分の遅れなど、もはや日常茶飯事になってしまった。かつての日本では考えられなかった状況だ。

日本は、かつてのイタリアのように、国家として体をなさぬ状態になりつつある。だから、70年代のヨーロッパ諸国の研究は、これからの日本を生きるための生活の知恵を学ぶ手段として、必須のことになるだろう。

状況が好転する条件はなにもない

ただし、あまり詳細な研究をしなくとも予測できることもある。

第1は、財政収支だ。政治が統治能力を失ったとき、まずそれが表れるのは、財政収支だ。実際、今回の総合経済対策には、その兆候が明白に表れている。とりわけ象徴的なのは、総選挙目当ての定額減税だ。このようなばらまき政策が、インフレの危機に直面する経済においてなぜ必要なのか、まったく理解できない。

その半面で、道路特定財源の見直しや基礎年金国庫負担率引上げのための財源確保など、財政の基本にかかわる問題には、なにも手がつけられていない。これらは、検討を行なうべきことが約束されている事項であるにもかかわらず、顧みられないのだ。ましてや、社会保障制度の基本的構造の見直しなど、およそ非現実的な目標になってしまった。したがって、人口の高齢化がさらに進むなかで、日本の社会保障制度が近い将来に破綻することは、避けられない状態になった。

財政収支が悪化する要因はいくらでも数え上げることができるが、それが改善する要因はどこにも見当たらない。だから、今後の財政赤字は、とめどもなく拡大してゆくだろう。

予測が可能な第2のものは、日本経済の対外的パフォーマンスである。これまでの為替レートは、日本国内の物価上昇率も名目金利も諸外国に比べて低い状態のなかで、円高圧力に直面していた。しかし、これが逆転して、構造的な円安に転じ、資金の海外避難が生じる可能性がある。そうなれば、長期金利が上昇するだろう。それは国債費を急増させ、財政赤字拡大の悪循環という恐怖のシナリオを指導させるだろう。

第3は、日本企業の収益性だ。日本で最後に期待できるのは企業だと思われていたが、円安の支えを失った途端に失速してしまった。時価総額で見た日本企業の現状はあまりに悲惨だ。

今後の日本社会には、悲観的なことしか考えられない。日本社会が音を立てて崩壊してゆく恐怖を、現実的なものとして感じる。

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