石油危機での英国の二の舞いを演じるな

世界の金融情勢が、再び大きく動こうとしている。

ECB(欧州中央銀行)のトリシェ総裁は、利上げに向けて強いメッセージを再三発している。ポールソン米財務長官は、「強いドルのためにドル買い介入も辞さない」と表明した(「強いドル」とは、金融引き締めを意味する)。これらの背景にあるのは、インフレに対する強い懸念だ。

世界の金融当局は、金融政策を今後どのように転換するか、あるいは転換しないのか。そして、それは経済活動にどのような影響を与えるのか。これらについては、近い将来に関してさえ、大きな不確実性がある。したがって、今確定的なことを述べるのは、かなりのリスクを伴う。しかし、きわめて重要なテーマなので、スペキュレーションも加えて考えてみよう。

第一のポイントは、日本がこうした動きに追随して金利引上げに踏み切るか否かだ。答えは、九分九厘「ノー」であろう。日銀がいかに強く利上げを望んだところで、自民党や財務省がそれを認めるとはとうてい思えない(日本の中央銀行は、政治や行政から独立してはいないのだ)。エコノミストのあいだでは、「いっそうの金融緩和を」との意見さえある。また、世論も利上げを容認しないだろう。

欧米の金利が上がるなかで日本が金融政策を変更しなければ、金利差が再び拡大する。現在、誘導政策金利で見た金利差は、ユーロ圏とのあいだで3.5%、アメリカとのあいだで1.5%ある。これが拡大すれば、日本から海外への資金流出が再び増える。円キャリートレードが復活する可能性があるし、国内一般投資家による外貨預金や外国投信も増えるだろう。FX取引が息を吹き返す可能性もある。これらは、為替レートを円安方向に動かす。

為替レートの変化だけを見れば、日本の輸出産業の収益にはプラスの影響だ。日本が金融引き締めに動かない基本的な理由は、この効果が期待されているからである。先日ある新聞記事に、「円キャリートレード復活への期待」という表現があった。日本では、投機取引による円安進行が待ち望まれているのだ。

しかし、問題は、企業収益が増大するか否かだ。そして、過去数年間に生じたような株価上昇・景気回復という結果がもたらされるかどうかである。これが、第2のポイントだ。

私は、そうならない可能性が強いと思う。基本的な理由は、数年前とは違って、資源価格の高騰が顕著になったからだ。日本の産業は製造業を中心としているので、原油・原材料価格の上昇は、企業収益にマイナスの影響を及ぼす(資源価格高騰で利益が増えるのは、商社くらいのものだ)。

円安と原材料価格高騰のどちらが強く効くかについて、さまざまなケースがありうるだろう。ただ、数年前の景気回復がそのまま再現されないことは、ほぼ確実である。つまり、円安と株価・景気の連動効果は、期待できないだろう。そうだとすると、今後の日本で生じるのは、資源価格の高騰が円安によって増幅されて生じるインフレだ。

ポンド安で物価高騰大打撃を受けた英国

1970年代のオイルショックのとき、日本はただちに金融引き締めで対処した(ショックから2カ月後の73年12月に、公定歩合は9%という未曾有の水準に引上げられた)。そのため、インフレの高進をある程度で食い止めることができた。

しかし、今のように金融緩和を継続すれば、インフレは野放しになるだろう。そして、国内の価格上昇は円安をもたらす。それは、輸入物価を引上げる。物価上昇は、危機的なレベルまで達する可能性がある。

70年代のオイルショックのとき、イギリス、イタリアでは、ポンド安、リラ安が貿易黒字の拡大ではなく、輸入物価の高騰をもたらした(これは、「Jカーブ効果」と呼ばれた)。その結果、深刻なスタグフレーションが生じた。イギリス経済は、そのとき受けた打撃から30年近い期間にわたって立ち直ることができなかったのである。

ここで注意すべきは、今回の資源価格高騰が一時的現象ではないことだ。急激な高騰が投機によることは否定できないが、投機だけが1人歩きして価格が高騰しているわけではない。本連載の第398回や第417回で述べたように、価格高騰の背後には、中国やインドの所得上昇による実需要の増加がある。これは、構造的なものであり、今後ますます顕著になるだろう。欧米の金融引き締めで投機的な取引が抑制されるとしても、価格の長期的な上昇傾向そのものを抑えることはできない。

物価上昇率が高まれば、定期預金の目減りが意識されるようになり、「日本国内で資産運用をしても、ダメだ」という考えが強まる。したがって、国内投資家による外貨資産運用が加速するだろう。昨年夏以来の急激な円高で大損害を被ったはずのFX取引が、いっこうに下火にならないのも、底流にそうした考えがあるからだろう。すると、再び円安バブルが進行する。

景気が回復せずに物価だけが上昇するのは、スタグフレーションにほかならない。日本は、イギリスがかつて経験した「30年不況」の瀬戸際に立っている。日本の金融政策は、今正念場を迎えつつある。

金融政策は紐と同じで引けるが押せない

ここ数カ月の欧米金融当局の動きを見ていると、インフレ懸念に対してかなり機敏に行動しているとの印象を受ける。それに対して、日本は相も変わらず「デフレ脱却」という念仏を唱えて、座り込んだままだ。これは、きわめて対照的な情景である。

ジョン・メイナード・ケインズは、「金融政策の紐のようなものであり、引くことはできるが押すことはできない」と言った。「過熱した景気を金融引き締めで抑えることはできるが、金融を緩和しても景気を刺激できない」ということだ(そのために、不況から脱出する手段として財政政策を提言したのである)。

金融政策で押すことができない理由は、「流動性のわな」だ。利子率が非常に低い水準になると、現金需要が無限大になってしまって、貨幣供給量をいくら増やしても、のみ込まれてしまうのである。90年代以降の日本は、典型的な「流動性のわな」に落ち込んだと考えられる。それにもかかわらず、日本のケインジアンは、ケインズ『一般理論』のこの部分(第4編、第15章)を忘れてしまったようだ。

しかし、欧米の金融当局者は覚えていた。そして、今ケインズの警告に忠実に従おうとしている。アメリカはサブプライム問題に対処して金融緩和を行なったが、これは「押そう」としたのではなく、「引くのを弱めた」と見ることができる。その方向をさえ、今転換しようとしている。

これだけのユーロ高、ポンド高になったにもかかわらず、ヨーロッパやイギリスの産業界からユーロ安、ポンド安の要求が出てこないことも注目される(それだから、金融引き締めが可能になるのだ)。それは、産業構造が弱い通貨に依存しなくてもよいものになったからだ。

これに対して日本は、「紐で押すことができる」と信じて、10年以上の期間にわたって、押し続けた。引くべきときがきたにもかかわらず、押し続けている。コメディの段階は、とっくに過ぎた。これから起ころうとしているのは、正真正銘の悲劇である。

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