オリンピック開催は公共事業のためか?

オリンピック東京大会が決まったときのマスメディアの反応は、「めでたいことだ。これが日本再生のきっかけになる」というものだった。

ただしそれは、「これによって日本人の体力が向上する」という意味ではない。「大会準備のための投資が、日本経済に新たな需要をもたらすと期待される」という意味である。事実、オリンピックの経済効果に関する分析が、その後いくっも発表された。「アベノミクスの第4の矢になる」との意見も表明された。

「オリンピックを機会に体を鍛えよう」というのならわかるのだが、「オリンピックを機会に投資をしよう」というのは、いかがなものだろうか?

多くの日本人にとって、オリンピックとは、競技場や付属施設が建設されること、道路・鉄道などの関連公共事業が行われること、そして、ホテルが増設され、世界中から観光客が押し寄せることであるようだ。もっと言えば、オリンピックとは、めったにない金もうけの機会であるようだ。だから、自分の事業を何とかオリンピックに関連づけようというわけだ。オリンピック競技場で何か行われるかは、こう考える人々の念頭には、最初からない。

昔、フランスのドーゴール大統領は、日本の首相を評して「トランジスタを売る商人だ」と言った。これを聞いてわれわれは、¬売っているのは事実だが、その前に優秀な製品を作っている。フランスにはできまい」と反発したものだ。しかし、それから半世紀たったいま、多くの日本人は、オリンピックと聞いて経済活性化(ありていに言えば、金もうけ)しか考えない。ド・ゴールの日本人観察は正しかったのかもしれない。

1964年の東京大会のときには、オリンピックは経済成長の起爆剤になった。束京の地下鉄が整備され、新幹線ができた。高速道路もできた。こうした社会資本の集中整備は、その後の経済成長を支える基盤施設になった。

しかし、いまの日本で同じことを期待するのは、アナクロニズム以外の何物でもない。なぜなら、現在の日本は、当時とはまったく異なる経済条件下にあるからだ。わずか数週間の一時的な利用のために膨大な投資を行えば、将来、重荷になるばかりだ。

東京大会は世界に向けて何を発信するのか?

オリンピック大会では、もともとのオリンピック精神にはなかった理念が発信されることがある。それは、開催国の(あるいは開催都市の)イデオロギーと言ってもよい。

それが最初に意識されたのは、1936年のベルリン大会だろう。これは、オリンピックを国威発揚の場にしようというものだ。記録映画のタイトル「民族の祭典」が、その本質を表している。世界を支配できる優秀な民族の条件は何か? それを、オリンピック競技場で示そうというのだ。

いまひとつは、「発展途上国モデル」だ。「わが国も、やっとオリンピック大会を開催できるだけ成長しました。だから、これからは、経済取引の相手として認めてください」というメッセージを世界に向けて発信するのである。典型が64年の東京大会だ。88年のソウル大会や2008年の北京大会もその延長上にある。

「理念」というほど大げさでなくとも、新しいアイディアや考えが提示されることもある。例えば、84年のロサンゼルス大会や96年のアトランタ大会では、公的資金の供与を受けず、民間資金による運営が行われた。04年のアテネ大会や12年のロンドン大会では、既存施設の活用が図られた。これらは、先進国型のイデオロギーと言えよう。

では、今回の東京大会は、いかなるメッセージを世界に発信するのか? これまでの招致運動は、確たるイデオロギーなしに進んだように見える。「これを機会に公共事業をやろう」というのでは、いかにもお粗末だ。第一それは、近年のオリンピックの潮流となっている「リノベーション&リサイクル」に真っ向から反する。

主催国の特権とは、世界から観光客を集められることではない。メッセージを発信できることだ。この機会を使わなければ、もったいない。答えを提示できなくともよいから、せめて問題提起を行つべきだ。

世界でもまれな高齢化が進んでいる国でオリンピックを行つことの意義を、アピールしてもよい。「若者の祭典」というイメージからの転換である。高齢者鉄人レースを取り入れてもよいし、パラリンピックを優先してもよい。

最低限必要なことは、過酷原子力事故を起こし、いまだにそれを克服できないでいる国としてのメッセージだろう。このことを見ぬふりをしたり、「コントロールされているから大丈夫」と言うのではなく、極めて深刻で困難な事態だが、それに真剣に向き合っているという現状を世界に向かって伝えるべきだ。

市民生活との連続性をアピールできないか?

いまひとつ可能なのは、市民生活ないしは個人生活との関連をテーマにすることである。

大多数の人にとって、いまのオリンピックは見るだけのものであり、積極的に参加できるものではない。競技場に登場するのは、人間能力の極限を追求するアスリートたちであり、普通の人とは隔絶された存在だからだ。いま世界最高水準を目指すには、日常生活を放擲する必要がある。そして、国や企業の庇護を受けなければならない。

プロであれば、すべてを投入してスポーツに専念するのは当然だ。しかし、アマチュアは、同じことを行えない。現代のオリンピックは、この意味で、根源的な矛盾を抱えている。アマチュア精神とは、必ずしもすべての市民が参加できることではない。しかし、大会と日常生活がこれほど懸け離れてしまった現状は問題だ。

ここで思い出すのは、1924年のパリ大会を背景とする実話に基づいた映画「炎のランナー」だ。出場選手は普通の生活を送っており、余暇を使って練習している。そして、試合よりは個人生活を優先する。

主人公の1人であるキリスト教の宣教師は、出場種目の日程が安息日である日曜日になってしまったため、宗教上の信念を優先して試合を放棄する。牧歌的な時代のエピソードだと言ってしまえばそれまでだが、われわれがこれを見て感動するのは、アマチュアスポーツの本質がそこに含まれているからだ。

選手が個人だからこそ、こうしたことができた。国や企業の援助で費用をかけて養成された選手では、自分の信念のために試合を放棄することはできない。

22年ノーベル物理学賞受賞者ニールス・ボーアはサッカーの選手で、1908年ロンドン大会のデンマークチームの補欠選手だった。こんなことも、いまでは望めまい。

日常生活とスポーツの連続性に関する何らかのメッセージを、東京大会が具体的な形で示せないものだろうか?

観客としてのわれわれは、超人的な競技は見たい。しかし、それはプロ、ないしは事実上のプロに任せればよい。世界陸上大会と世界水冰大会はあるのだから、極限の追求はそちらに任せる。そして、4年に1度のオリンピックは、アマチュア競技の原点に戻ることとするのである。そのために、大げさな開会式は行わない。メダルもやめにする。表彰式も国歌演奏も国旗掲揚も行わない、等々。新しい試みはいくつも考えつく。

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